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毛利元就墓所(洞春寺跡)

毛利元就墓所(洞春寺跡)

安芸高田市にある中世の山城、郡山城(吉田郡山城)の城内にある洞春寺跡にあるのが毛利元就墓所(もうりもとなりぼしょ)。郡山城を整備拡幅し、安芸の国人領主から戦国大名へと躍り出た毛利元就は、元亀2年6月14日(1571年7月6日)没。翌年、孫の毛利輝元によって菩提寺である洞春寺が建立され境内に墓が建立されています。

戦国乱世を生きた毛利元就の墓所は吉田郡山城の城内に

墓域は前域・後域に分かれ、前域1列目の石灯籠は、7代広島藩主・浅野重晟(あさのしげあきら)、地元吉田村出身の眼科医・土生玄碩(はぶげんせき)、山口県士族18人が奉納したもの。
2・3列目は、毛利氏親族、4列目は、5代広島藩主・浅野吉長奉献の石灯籠です。

後域には、5代広島藩主・浅野吉長寄進の石垣が巡らされ、「贈従三位大江朝臣元就卿御墓」の墓碑が立っています。
墓標には、ハリイブキが植えられていましたが、今は枯れています。
葬儀が行なわれた日を新暦に直して7月16日に墓前祭が行なわれています。

菩提寺である洞春寺は、関ヶ原の戦い後の慶長8年(1603年)に毛利家に従って山口に、次いで慶長11年(1606年)萩城内に移り、さらに明治維新後の明治2年に再び山口(現・山口県山口市)に移っています。

毛利元就は、明応6年(1497年)3月14日、母の実家の鈴尾城(福原城=現・安芸高田市福原)に生誕。
毛利弘元、長男・興元と2代続く当主の急死後に、有田中井手の戦いで安芸武田氏を打ち破り、次男だった元就が毛利家の家督を継ぎます。
大永3年(1523年)8月10日に郡山城に入城し、城を整備拡幅。
尼子経久と敵対し、大内義興の配下として台頭します。

三矢の教え(3本の矢の教え)は後世の創作!?

毛利元就

死ぬ間際の元就が、3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢は折れるが3本束ねると折れないという教訓を用いて、兄弟の結束を促した話が伝えられていますが、実際には元就よりも隆元が早世しているなど、史実ではありません。
ただし、弘治3年(1557年)に元就が3人にしたためた直筆書状『三子教訓状』(さんしきょうくんじょう=国の重要文化財「毛利家文書」)が現存し、山口県防府市の毛利博物館に収蔵されています。
元春と隆景はそれぞれ他家を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬ、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬなど、兄弟の結束を強く説いています。

平成9年のNHK大河ドラマ『毛利元就』では、元就を中村橋之助(現・8代目中村芝翫)が好演。
この大河ドラマにも『三子教訓状』が登場。

毛利元就墓所(洞春寺跡)
名称 毛利元就墓所(洞春寺跡)/もうりもとなりぼしょ(とうしゅんじあと)
所在地 広島県安芸高田市吉田町吉田
関連HP 安芸高田市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR芸備線向原駅からタクシーで15分
ドライブで 中国自動車道高田ICから約9km
駐車場 40台/無料
問い合わせ 安芸高田市観光協会 TEL:0826-46-7055/FAX:0826-46-3015
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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