郡山城

郡山城跡

広島県安芸高田市、かつての吉田荘(よしだのしょう)を見下ろす、標高400mの郡山の山上にある山城の跡が、毛利元就(もうりもとなり)の居城、郡山城跡(こおりやまじょうせき=吉田郡山城)。「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されるほか、「日本100名城」に選定されています。

幾多の合戦を経て栄えた毛利氏の本拠地

郡山城跡
郡山城跡

建武3年(1336年)、毛利時親(もうりときちか)により築かれ、南北朝時代に安芸国吉田荘の地頭頭として定着した毛利氏が、一貫して本拠とした山城。
のちに大永3年(1523年)に毛利元就が入城して、全山を城域に拡大。
国人領主の盟主から戦国大名への脱皮を図り、山全体を要塞とする巨大な城郭と化したのです。
天文22年1月22日(1553年2月4日)、中国路を制圧し、豊臣政権家で五大老となり、関ヶ原の合戦で西軍の総大将に担がれた毛利輝元は吉田城で生誕しています。

天正19年(1591年)に交通の便がよく、瀬戸内海や山陽道に睨みのきく広島城が築城され、郡山城の使命が終わりました。
その間、毛利時親に始まり、毛利元就の孫・輝元が広島城に移るまでの256年間、毛利氏の居城として、尼子詮久(後の尼子晴久)率いる3万の大軍を撃退するなどの役割を果たしました。

慶長20年の一国一城令により、城は取り壊され、さらに寛永14年(1637年)に島原の乱で一揆軍が原城跡に籠城するという事件が起きて、石垣、堀などを含めて完全に破却されています。

本丸往復はハイキングコースとして整備

郡山城跡
展望台から吉田城下を眺望

山頂に本丸、一段下がり二の丸、三の丸と続き、四方にのびる峰には200以上もの曲輪があり、全山を城郭化した大規模な山城でした。
山頂の北端に一段高くなった櫓台があり、戦国時代末期の天正15年(1587年)頃の絵図には天守らしきものが描かれています。
東西1.1km、南北0.9kmにも及ぶ広大な山城全体が国の史跡となっています。

南側に内堀が配され、往時には城郭内に大通院、洞春寺、常栄寺、満願寺の寺もありましたが、現在は遺構が残るのみとなっています。
郡山城の搦手(からめて=裏口)に建てられた洞春寺の跡には、毛利元就の墓など毛利氏一族の墓が残されています。
「百万一心」の石碑は、郡山城の改修に際して、毛利元就が旧来の人柱に代わり「百万一心」と彫った石を埋めさせると工事が上手くいった、という伝説に基いて立てられた碑。
幕末に長州藩士が山中で実物を発見したと記していますが、いまだ真相は明らかになっていません。

山麓の清神社(すがじんじゃ)は、毛利一族が尊崇した鎮守社。

さらに山麓の安芸高田少年自然の家あたりが毛利元就の屋敷があったと伝わる御里屋敷伝承地。
毛利元就像と三矢の訓碑が立っていますが、発掘調査では遺構が発見されず、屋敷があったのは別の場所の可能性も生まれています。

山麓にある「安芸高田市歴史民俗博物館」では、毛利氏関連の資料も展示されており、駐車場・安芸高田少年自然の家への入口に位置するのでぜひ寄り道を。

毛利隆元墓所近くにある山麓の駐車場から山頂の本丸まで徒歩40分。

郡山城跡
毛利元就の墓所
郡山城跡
「百万一心」の石碑
郡山城
名称 郡山城/こおりやまじょう
Koriyama Castle
所在地 広島県安芸高田市吉田町吉田
関連HP 安芸高田市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR芸備線向原駅からタクシーで15分
ドライブで 中国自動車道高田ICから約9km
駐車場 40台/無料
問い合わせ 安芸高田市観光協会 TEL:0826-46-7055/FAX:0826-46-3015
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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