五大老とは!?

五大老

豊臣政権を支えた徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家という5人の大大名(だいだいみょう=10万石以上の大名)が五大老。実務は浅野長政、石田三成などの五奉行が行なったので、五大老は秀頼が成人して政務を司るまで、互いに牽制しながら補佐させる目的で、豊臣秀吉が生み出したもの。

徳川家康

領地:関八州(武蔵・伊豆・相模・下総・上総・上野・下野)など256万石
居城:江戸城
生誕:天文11年12月26日(1543年1月31日)
生誕地:三河国・岡崎城(愛知県岡崎市)
死没:元和2年4月17日(1616年6月1日)
没地:駿府城
墓所:久能山東照宮・神廟、日光東照宮・奥社
関ヶ原合戦では:東軍、戦後、征夷大将軍となって徳川幕府を開く

大名気取りで、江戸城に登城しよう!

全国の大名が参勤交代で江戸参府の際、江戸城に入城するのは正門である大手門から。まずは大手門でから厳しい入城チェックが始まりますが、往時をイメージしながら、江戸城本丸の表御殿へと登城し、有名な松之大廊下を歩き、天守台にも上ってみましょう。この

岡崎城

岡崎城(愛知県岡崎市)は、徳川家康が出生した城として有名。天守は明治時代に取り壊され、現在の天守は、昭和34年の再建で、1617年(元和3)に本多忠利が再建したものをモデルとしたもの。2〜4階は、江戸時代の岡崎を紹介する資料館として公開され

駿府城跡(駿府城公園)

静岡市の中心に位置する二重の堀と美しい石垣に囲まれた、静岡市民憩いの場。かつて徳川家康が築城、余生を送った駿府城の跡で、駿府藩の藩庁。府中城や静岡城とも呼ばれています。日清戦争後の明治29年から終戦まで、静岡歩兵第三十四聯隊の兵営があった場

久能山東照宮・神廟(家康墓所)

久能山東照宮・神廟(家康墓所)

元和2年4月17日(1616年6月1日)に駿府城で没した徳川家康は、その遺言によってその夜のうちに久能山に遺体が移され、葬られています。一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社にも祀られていますが、久能山東照宮には実際に埋葬された東照大権

日光東照宮・奥社

日光東照宮・奥社

日光東照宮は、徳川家康の廟所として築かれた神仏習合の霊山。まずは久能山に祀り、その後、日光山に改葬という家康の遺言を受け、天台宗の天海大僧正の主張(山王一実神道で祀る)で東照大権現として祀られましたが、その墓所が日光東照宮・奥社。坂下門から

前田利家

領地:北陸(加賀・越中)など83万石
居城:金沢城
生誕:天文7年12月25日(1539年1月15日)/諸説あります
生誕地:尾張国・荒子城もしくは、尾張国・前田城(愛知県名古屋市)
死没:慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)
没地:大坂の前田利家邸(現・玉造稲荷神社)
墓所:野田山・加賀藩主前田家墓所(金沢市野田町)、宝円寺
関ヶ原合戦では:合戦前年に死没。家康は加賀征伐を検討し、嫡男・前田利長(父を継いで五大老に就任)は母・芳春院(まつ)が人質になる条件を受け入れ、加賀征伐は撤回。
関ヶ原合戦では東軍

金沢城

金沢城

加賀百万石のシンボル、金沢城は、加賀藩主・前田家の居城。天正11年(1583年)、前田利家により本格的な築城が開始されました。天明8年(1788年)築の石川門、安政5年(1858年)に再建された三十間長屋は、そして鶴丸倉庫は国の重要文化財。

荒子城跡

荒子城跡

尾張国海東郡荒子村(現・愛知県名古屋市中川区荒子)に天文年間(1532年~1555年)に前田利春(前田利昌)が築城、その長男である利久、四男・利家、利家の長男・利長が相次いで居城した城の跡が荒子城跡(あらこじょうせき)。城跡は冨士大権現天満

前田速念寺(前田城址)

前田速念寺(前田城址)

前田速念寺は、庄内川沿いの尾張国海東郡前田村(現・愛知県名古屋市中川区前田西町)にある寺で前田城址。2代当主の前田長定は織田信長に仕え、速念寺の寺伝では前田利家はこの地で誕生している。通説では荒子城が生誕地ですが、利家の出生時に荒子城があっ

玉造稲荷神社

玉造稲荷神社

大阪府大阪市中央区玉造にある古社が玉造稲荷神社。社伝によれば垂仁天皇が創建といい、蘇我氏と物部氏の戦いの際に、聖徳太子が観音堂を建立した地とも伝えられています。豊臣政権下では大坂城三の丸に位置し、一帯には前田利家など重臣の屋敷が並び、千利休

野田山・加賀藩主前田家墓所

野田山・加賀藩主前田家墓所

金沢城の南西3.5kmの野田山(標高175m)の山腹に広がるのが加賀藩主前田家墓所。天正15年(1587年)、藩祖となる前田利家(まえだとしいえ)が実兄・前田利久(まえだとしひさ)を山頂近くに葬ったのが野田山墓地の始まり。利家も野田山に葬る

毛利輝元

領地:中国路(安芸・周防・出雲・石見・備後・隠岐)など120万石
居城:広島城
生誕:天文22年1月22日(1553年2月4日)
生誕地:安芸国・郡山城(広島県安芸高田市)
死没:寛永2年4月27日(1625年6月2日)
没地:隠居所である萩・四本松邸=現・萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)
墓所:萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)
関ヶ原合戦では:西軍総大将
配下の吉川広家、小早川秀秋は家康に内通し、戦後の毛利氏の本領安堵などを交渉、結果、毛利勢は大坂市中で待機し参戦せず、所領安堵を条件に大坂城から退去
家康は、所領安堵の約束を反故にし、毛利氏の所領は山陽・山陰8ヶ国から周防・長門2ヶ国の29万8000石に厳封
毛利輝元は隠居し、毛利秀就(もうりひでなり)が周防・長門2ヶ国を所領し、萩藩(長州藩)を立藩

広島城

広島城

広島城は、天正17年(1589年)、豊臣秀吉の五大老の一人、毛利輝元(もうりてるもと)により築城され、天守は昭和6年に国宝に指定され、城郭建築が残されていました。残念ながら原爆投下により全壊し、現在の天守は昭和33年に復元されたもの。名古屋

郡山城跡

郡山城跡

広島県安芸高田市、かつての吉田荘(よしだのしょう)を見下ろす、標高400mの郡山の山上にある山城の跡が、毛利元就(もうりもとなり)の居城、郡山城跡(こおりやまじょうせき=吉田郡山城)。「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されるほか、

萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)

萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)

山口県萩市堀内、堀内体育館近くにある毛利家墓所のひとつが、萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)。豊臣政権の五大老のひとり、毛利輝元とその妻・南の大方(清光院)、殉死した長井次郎左衛門が眠っています。毛利輝元の菩提寺、天樹院は廃寺になっています。

上杉景勝

領地:会津および北陸・佐渡など120万石
居城:会津鶴ヶ城
生誕:弘治元年11月27日(1556年1月8日)
生誕地:坂戸城下(新潟県南魚沼市)
死没:元和9年3月20日(1623年4月19日)
没地:米沢城
墓所:上杉家廟所
関ヶ原合戦では:家老の直江兼続が五奉行の石田三成と懇意にあった事などの経緯から徳川家康と対立し、関ヶ原合戦の契機となる家康の会津征伐へと発展
東軍に与した伊達政宗や最上義光らと合戦(慶長出羽合戦)も、西軍敗北の報を受け家康に降伏、米沢’に転封、実高51万石に減少

鶴ヶ城公園(若松城)

会津のシンボルともいえる鶴ヶ城(若松城)。本丸、二の丸、三の丸、北出丸、西出丸があり、本丸跡に鉄筋コンクリート造りの天守が再建され、内部は郷土博物館に。本丸、二の丸一帯は国の史跡となり、鶴ヶ城公園として整備されています。「日本100名城」、

坂戸城跡

坂戸城跡

三国街道と清水街道の分岐点で、往時には「上田船道」と呼ばれる水運の終点だったという交通の要衝が南魚沼市の六日町。古くは上田庄と呼ばれ、軍事、交通上の重要な拠点だったのです。町の東に聳える坂戸山(633.7m)には、坂戸城が築かれ、越後と江戸

松が岬公園(米沢城跡)

松が岬公園(米沢城跡)

山形県米沢市にある松が岬公園は、江戸時代に上杉家の居城、米沢藩の藩庁だった米沢城跡に整備された公園で、城下町の歴史と文化の中心地ともなっている公園。県内屈指の桜の名所で、市民の憩いの場として親しまれています。公園の中央(本丸跡)には上杉謙信

上杉家廟所

上杉家廟所

山形県米沢市にある米沢藩主上杉家の墓所で、初代の上杉謙信から12代の斉定までが埋葬されているのが上杉家廟所(米澤藩主上杉家廟所)。もともと謙信の遺骸は米沢城本丸の御堂に安置され、現在の墓所のある地はいざという時の避難場所として確保されていた

宇喜多秀家

領地:山陽(備前・美作・備中半国・播磨赤穂郡)57万石
居城:岡山城
生誕:元亀3年(1572年)/月日不明
生誕地:備前国・岡山城
死没:明暦元年11月20日(1655年12月17日)
没地:八丈島(流刑先)
墓所:八丈島
関ヶ原合戦では:西軍の副将、ただし西軍総大将・毛利輝元が大坂城に留まったことから、実質的な前線の総大将に
家康断罪の檄文を発し、総大将として伏見城を攻略、さらに関ヶ原でも西軍最大の1万7000人の軍勢を率いて参戦
敗戦後、伊吹山中、京・太秦などに潜伏後、島津義弘を頼って薩摩へ、その後、駿府城の家康のもとへ身柄を引き渡され、前田利家の嘆願で死罪を免れ(宇喜多秀家の正室・豪姫は前田利家・まつの四女)、2人の息子とともに八丈島に流刑

岡山城

岡山城

池田氏岡山藩31万5000石の居城で藩政時代、岡山藩の藩庁が岡山城。天正元年(1573年)、宇喜多秀家の父・宇喜多直家がそれまでの居城である亀山城(沼城)から石山城(岡山城)に入城。西国街道を城下に入れ、城下町を整備したのが始まり。その後、

宇喜多秀家の墓

宇喜多秀家の墓

東京都八丈町大賀郷にあるのが豊臣政権で五大老のひとりだった宇喜多秀家の墓。備前岡山城主として備中・備前・美作57万4000石を領有する大名でしたが、関ヶ原の合戦で西軍の副大将となり、敗戦。前田利長らの懇願で、死罪を免れて、八丈島に流刑。34

五大老とは!?
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大河ドラマの主人公、有名武将の生誕地&産湯の井戸

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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑を筆頭に、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、明智光秀、前田利家、山内一豊、徳川秀忠、源頼朝というNHK大河ドラマの主人公となった11人の有名武将、そしてその候補となる2人(石田三成、加藤清正)の合計13人の生

有名武将の終焉の地&墓所

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徳川四天王

徳川四天王とは!?

四天王とは、東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天という具合に仏法僧を守護している四神のこと。転じて徳川四天王は、仏法守護の四神のように、徳川家康を守り、徳川幕府を開くまでに尽力した酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政のことです。

 

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