広島県広島市、広島市街を東西4kmに渡って横断するメインストリートが、平和大通り。第2次世界大戦末期に軍都・広島で、空襲による延焼を防ぐ目的に建物を強制移転(「建物疎開」)して設けられた防火帯が前身。日本に3ヶ所しかない100m道路(残りは名古屋市の久屋大通、若宮大通)。
広島平和記念都市建設計画で誕生した100m道路
広島市では昭和19年11月に建物疎開が始まり、原爆投下時の昭和20年8月には第六次建物疎開が行なわれ、国民義勇隊(国民学校初等科修了以上の男子65歳、女子45歳までのすべての国民が編成の対象、ただし若い男性はすでに軍隊に招集されているので、実際は40歳以上の男性と、女性)、中学生などが動員されて工事に従事していました。
防火帯の建設作業中に動員された作業者(多くは動員された一般市民、生徒)の上で原爆が炸裂、数千人といわれる犠牲者が生まれたのです。
広島市内での建物疎開中の犠牲は、引率教師も含め39校の計5959人を数えています。
そんな悲惨な事実を背景に、戦後、広島平和記念都市建設法による都市の再建が行なわれると、隣接する広島平和記念公園とともに平和大通りとして復興・広島のシンボル的なメインストリートになっています。
平和大通りの名は戦後に公募で決められたもの。
広島市道比治山庚午線の一部で、西端は西区己斐の新己斐橋西詰交差点、東端が南区比治山の鶴見橋東詰交差点。
昭和25年の『広島平和都市建設構想案』には「平和を希求する心を平和公園に鳩合(きゅうごう)する通路」と記され、植栽される樹木はクスノキ、ケヤキ、トウカエデなど150種に及んでいます。
100m道路と呼ばれるように幅は100mあり、日本の道100選にも選定。
英語表記は、Peace Boulevard(Boulevard=埋もれていると大通り)。
名古屋市の100m道路は中央に園地を配して、両側に道路を設けていますが、平和大通りは川をまたぐこともあって中央が縦貫道路でその両横が緑地帯、さらに両脇に道路を配しています。
縦貫道路は、片側2車線の4車線なので、名古屋の100m道路の往復8車線(片側4車線)に比べると、車線の幅員は狭いのですが、その分、園地部分が広いので、イベントなどに活用できる仕組み。
そのため、ゴールデンウィークの『ひろしまフラワーフェスティバル』、11月中旬~1月上旬の『ひろしまドリミネーション』の会場になっています。
平和大通り沿いにある白神社(しらかみしゃ)は、広島城下の総産土神(そううぶすながみ)。
白神社前(爆心地から530m)には被爆樹木も現存しています。
平和大通り | |
名称 | 平和大通り/へいわおおどおり |
所在地 | 広島県広島市中区・西区 |
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