江戸時代、米を産しない蝦夷地(えぞち=北海道)で松前藩は鰊(ニシン)を「鯡」(魚に非ず)と記して、主産物として北前船で内地へと送って藩財政を支えました。それでも松前藩は、米作への探求を行ない、大野平野(現・北斗市)に水田を開墾。新函館北斗駅の南東4kmほどの地に「北海道水田発祥の地」碑が立っています。
碑文では1692(元禄5)年に文月地区で米作り開始!
実は北海道の稲作の始まりは定かでありません。
寛文年間(1661年〜1672年)説=「文月及大野村の農家某に勸めて稲作を試みせしむ。之を当地方米作の嚆矢となす」(明治26年/勸農協会通信委員福島平次郎調査)。
1685(貞享2)年説=「亀田・上磯両郡稲作は遠く貞享及天明年間に起り、爾来年を経るに隋ひ各地に創業者輩出」(明治26年/亀田外三郡役所調査』)。
1692(元禄5)年説=「元禄五年東部亀田ニテ作右衛門ト云者、新田ヲ試ミケレト二、三年ニシテ廃止シタリ」(1781年・天明元年/松前廣長著『松前志 巻之六』)。
江戸時代の『松前志』の記載や、明治時代の聞き取り調査、さらには地元の伝承などをもとに、昭和24年に渡島支庁が建てたのが「北海道水田発祥の地」碑。
碑文などによれば、1692(元禄5)年、亀田郡大野村文月地区(文月村)で、松前藩の命により南部藩の野田村(現・岩手県九戸郡野田村)からこの地に移った野田作右衛門が、自然水を引水して450坪(約15アール)を開墾し、米10俵を収穫したのだとか。
この大野平野で本格的な米作りが行なわれるのは、1800(寛政12)年、蝦夷地取締役御用掛の発案での蝦夷地最初の米の大試作、さらに1805(文化2)年、箱館奉行と民間における200町歩の新田開発から。
1799(寛政11)年、本格的な米作りを始めるために、現在の大野小学校の場所に大野会所設置し、道産米の生産体制が整ったのです。
しかしながら、この米作りも1820(文政3)年頃には「永続なりがたく今は跡のみ残れり」(松田伝十郎著『北夷談』)となって、営農が成功したわけではありませんでした。
「稲作不適」の定説をくつがえして米作りに成功したのは、幕末の1850(嘉永3)年、高田万次郎。
3年かけて畑やヒエ田1町4反歩を水田とし、玄米24石(60俵)を収穫。
その後、水田経営に専念し、田畑は253町歩にも達しています。
北海道水田発祥の地 | |
名称 | 北海道水田発祥の地/ほっかいどうすいでんはっしょうのち |
所在地 | 北海道北斗市文月 |
関連HP | 北斗市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR新函館北斗駅からタクシーで10分 |
ドライブで | 函館空港から約26km |
問い合わせ | 北斗市観光協会 TEL:0138-77-5011 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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