斜里町役場の裏手、知床博物館の西側のこんもりと茂った町民公園にある史跡。1807年(文化4)年、江戸幕府は津軽藩、秋田藩などの東北諸藩に蝦夷地警備を命じています。寒さに強いという理由で東北諸藩がロシアの南進策に対抗する蝦夷地警備を命じられたのですが、斜里でも多くの殉難者を出しています。
蝦夷地防備で亡くなった津軽藩士の墓
1789(寛政元)年、物資を積んだ船を通じて、シャリのアイヌから松前藩に対して交易船の派遣願いが出されました。
シャリ場所開設の要請で、1790(寛政2)年、ソウヤ場所から分かれるかたちでシャリ場所が開設されました。
シャリ場所の運営は、樺太、千島などでのロシア船による商船襲撃などがあり(文化露寇)、北辺の警備が危急の課題となりました。
1807年(文化4)年〜1809年(文化6)年、幕府は、会津藩に対して樺太出兵を命令。
帝政ロシアの南下政策に対して、1807年(文化4)年、シャリ場所は松前藩領から天領(幕府直轄地)となり、津軽藩が斜里前浜(砂丘部分/津軽藩士シャリ陣屋跡=斜里町本町52-24)に陣屋3棟を構えました。
厳しい冬場に浮腫病の蔓延により藩士は72名が死亡し、故郷の津軽に戻った者はわずかに17名となったのです。
津軽藩士殉難事件といわれる悲劇で、町民公園には津軽藩士殉難慰霊碑、1812(文化9)年建立の「津軽藩士死没者の供養碑」(斜里町有形文化財)があるほか、藩士の墓所跡、さらには曹洞宗禅龍寺(斜里町本町47-2)に津軽藩士死没者の過去帳も残されています。
墓所があった場所には、何も残されておらず、墓所があったと推測される場所が斜里町の史跡となっています。
越冬で多くの犠牲者を出した津軽藩のシャリ場所警備は、翌1808(文化5)年に会津藩に引き継がれています。
現在、斜里町で『しれとこ斜里ねぷた』(例年7月下旬の金・土)が行なわれるのは、そんな斜里町と津軽との関係を背景に、青森県弘前市との友好都市盟約があるからです。
『しれとこ斜里ねぷた』の際には殉難慰霊碑前で、慰霊祭も行なわれています。
ちなみに当時のシャリ場所は、能取から知床岬までの領域。
幕末の1859(安政6)年に会津藩は本営陣屋を標津(しべつ)に置き(シャリには出張陣屋)、本格的な蝦夷地経営と開拓に乗り出しましたが、財政的な理由もあってあまり成果を上げずに明治維新を迎えています。
津軽藩士墓所跡・津軽藩士殉難慰霊碑 | |
名称 | 津軽藩士墓所跡・津軽藩士殉難慰霊碑/つがるはんしぼしょあとつがるはんしじゅんなんいれいひ |
所在地 | 北海道斜里郡斜里町本町49-2 町民公園内 |
関連HP | 斜里町立知床博物館公式ホームページ |
ドライブで | 女満別空港から約54km |
駐車場 | 斜里町役場・斜里町立知床博物館などを利用 |
問い合わせ | 知床斜里町観光協会 TEL:0152-22-2125 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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