北海道天塩町、天塩川河口の川口遺跡風景林にある続縄文時代から擦文時代、オホーツク文化時代の遺跡が川口遺跡。森のなかに竪穴式住居跡230基が発見され、竪穴式住居も2基復元されています。日本海オロロンライン・道道106号沿いの駐車場(南口)から遊歩道が整備され、徒歩5分ほどで天塩川の河口や復元住居を見学可能です。
天塩川河口に狩猟民族の豊かな暮らしがあった!
川口遺跡風景林内の幅200m、長さ1.5kmにわたって230基の竪穴式住居跡230基が確認され、最大のものでは11m✕9mという巨大なものです。
正方形、台形、五角形という方形のものが多いのも特徴です。
川口遺跡からの発掘された土器や石器の一部は、天塩市街の「天塩川歴史資料館」に保存展示されています。
石狩川に次いで北海道で2番目に長大な川、天塩川(てしおがわ)。
天塩川河口部の標高7~8mの砂丘地帯では、続縄文時代(本州では弥生時代、米のできない北海道では続縄文時代)に集落の形成が始まり、本州の古墳文化の影響を受けた擦文文化期になると竪穴式住居の数が急増したことがわかっています。
天塩川を遡る鮭類を捕獲したり、川で貝を採取したり、森林でエゾシカやウサギなどの狩猟、さらには山菜や木の実を採集するなど、古代の暮らしが想像できます。
天塩川の天塩は、アイヌ語で梁(やな)を表すテシ(tes)に由来。
つまりは、魚が豊富だったわけで、その河口部は狩猟民族にとっては豊かな生活が保証された場所だったわけです。
また、天塩川は開拓時代に入植、木材の搬出など舟運にも利用されていました。
川口遺跡に隣接して天塩厳島神社も鎮座していますが、文化元年(1804年)、紀伊国有田郡栖原村(現・和歌山県湯浅町)出身の6代目栖原角兵衛(すはらかくべえ)が松前藩のサケ・マス漁場経営のために天塩川河岸に運上所を開設する際、鎮守社として創建したもの(当時、栖原角兵衛は、松前藩からテシホ場所、テウレ場所、ヤンゲシリ場所、トママイ場所、ルルモッペ場所を請け負っていました)。
川口遺跡 | |
名称 | 川口遺跡/かわぐちいせき |
所在地 | 北海道天塩郡天塩町川口基線1〜3号 |
関連HP | 天塩町公式ホームページ |
ドライブで | 稚内空港から約71km |
駐車場 | 20台/無料 |
問い合わせ | 天塩町教育委員会 TEL:01632-2-1026 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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