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開拓使美々鹿肉罐詰製造所跡

イギリスやアメリカから技術導入を積極的に進めた開拓使(現在の道庁)。現在の千歳市美々には明治7年に鹿肉燻製所を設置し、明治11年に鹿肉罐詰所と脂肪製造所が設けられました。さらに明治12年には鹿の臓腑、血液などをもって人造硝石床製造所も併設されています。

明治11年、この地に缶詰工場が誕生した

開拓時代の美々(現・新千歳空港周辺)はエゾジカの天国だった

明治6年、開拓顧問のホーレス・ケプロン(Horace Capron)は、開拓長官に提出した文書で魚類の製法を一変すれば広く外国に輸出して大いに国益を起こすことになるとの提言を行ないました。
さらに明治8年には、地元の産業が栄えるよう加工場を開拓使自ら建設するよう提言しています。

明治8年、アメリカ・フィラデルフィアで開かれた万国博覧会に事務官として視察した関沢明清が、コロンビア州の鮭缶詰工場を見学して大いに刺激を受け、帰国後、大久保利通(内務卿)に日本にも缶詰所をつくるように建議。

それに従って明治10年の石狩罐詰所(サケ・マス/現・石狩市親船町65)を皮切りに美々鹿肉罐詰所(鹿)、厚岸(カキ、鹿/厚岸町奔渡)、別海(サケ・マス/別海町本別海1-93、本別海1-205)、択捉島(えとろふとう/サケ・マス)・紗那(しゃな/サケ・マス)と、各地に缶詰工場を建設しています。

美々には鹿肉罐詰所と脂肪製造所が設けられましたが、当時千歳一帯は石狩地方に比べて冬場の積雪が少ないので鹿が食を求めて大挙群集していたのだとか。
明治11年竣工のコルベット(巡洋艦)「比叡」の海外渡航に際しては、美々で製造した缶詰をのせています。

わずか数年で缶詰工場廃止

美々鹿肉罐詰所
生産された鹿肉の缶詰。このほか魚介の缶詰なども生産されました

鹿の乱獲と大雪による食糧難からの餓死、鉄道の開道による開拓などで、鹿の数が激減し、さらには官営工場だったこともあって経営は振るわず、明治17年に工場は廃止されています。

当時の記録によると、工場の規模は敷地2000坪(6611平米)、建物総坪数260坪(659平米)、製造所、搾粕所機器室、脂肪所、倉庫の外職人舎、生徒舎が建っていました。

工場の生徒舎は、ロシアから導入した道内最初の校倉造りの建物で、工場跡の記念碑が残るのみ。

記念碑は道道10号沿いに設置されていますが、少し東側には明治14年、明治天皇行幸の際に休憩をとり、湧き水を飲まれたと伝わる御前水もあります(現在は飲用不適)。

明治天皇の御巡幸に際しては校倉造り生徒舎が御休所になっており、現在の記念碑と御前水の中間の地点に建っていました。

ホーレス・ケプロン
渡米していた黒田清隆に懇願され、アメリカ合衆国農務局長の職を辞して明治4年に訪日。明治8年に離日するまで、開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問として活躍。
北海道は稲が育たないことから麦の栽培を奨励、札幌農学校の開学、輸出をも視野に入れた缶詰所の設立、札幌〜室蘭間、森〜函館間の馬車道の整備(室蘭〜森は航路)、札幌〜室蘭間の鉄道敷設などを進言しています。
日本初の缶詰量産工場である石狩罐詰所(現・石狩市親船町65)がつくられたのは、明治10年10月10日で、「缶詰の日」となっています。
札幌の大通公園(西10丁目)には北海道開拓に大きな功績のあった黒田清隆像と並んで、ホーレス・ケプロンの像が立っています。
ホーレス・ケプロン
大通公園に並ぶケプロンと黒田清隆の像
開拓使美々鹿肉罐詰製造所跡
名称 開拓使美々鹿肉罐詰製造所跡/かいたくしびびしかにくかんづめせいぞうしょあと
所在地 北海道苫小牧市美沢135
関連HP 苫小牧市公式ホームページ
電車・バスで JR美々駅から徒歩19分
ドライブで 道央自動車道千歳ICから約10.6km
駐車場 なし
問い合わせ 苫小牧観光案内所 TEL:0144-34-2000
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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