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ペリー提督来航記念碑(函館)

ペリー提督来航記念碑(函館)

北海道函館市弥生町、かつて箱館奉行所のあった元町公園の下、基坂(もといざか)横のペリー広場に立つのが、ペリー提督来航記念碑。平成14年、ペリー来航150周年を記念して建立された東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry)の立像です。

日米和親条約締結直後、ペリーが箱館に来航

ペリーは、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、琉球(沖縄県)経由で、江戸湾・浦賀(神奈川県横須賀市)に来航し、久里浜に上陸、浦賀奉行の戸田氏栄(とだうじよし)と井戸弘道(いどひろみち)にアメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を渡します。
「泰平の眠りをさます上喜撰(上質のお茶=蒸気船にかけた言葉)たった四盃(4隻のこと、ただし実際の蒸気船は2隻で、残りは帆船)で夜も寝られず」の狂歌で知られるように、江戸の町は大騒動となりました。

徳川幕府から翌年までの猶予を求められ、いったん帰国しますが、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に旗艦「サスケハナ号」など7隻の軍艦を率いて神奈川沖(現在の横浜市の沖)に迫って幕府に圧力をかけ、ついに嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約(神奈川条約)を締結します。
日米和親条約締結で、下田、箱館(現・函館港)の開港(下田は即日開港、箱館は翌年3月開港)が取り決められますが、ペリーはすぐに海路下田に向かい、了仙寺で下田条約を締結。
そして下見のためと称して箱館に向かいます。

当時の東廻り航路の弁財船(千石船)で箱館から江戸へは最速で20日ほど要しましたが、ペリー艦隊の蒸気船はわずか4日と4時間後の嘉永7年4月21日(1854年5月17日)9:00、箱館へ入港しています。
松前藩は事前にペリー来航を知らされていたため、住民との接触を避けるため女性や子供を郊外に避難させ、牛や酒を人目につかない場所へ隠し、海岸線2kmに渡って目隠し塀を設置するなどの対策を講じますが、条約の内容はまだ伝わっていませんでした。
箱館開港を知ったもの4月21日、「マセドニアン号」松前藩の応接方が、ペリー艦隊ウイリアムズの持参した幕吏の書状(「箱館港之義は、来三月より御開可」)を受け取った際が初めてでした。

ペリー箱館入港の翌日、4月22日に弁天町の豪商・山田屋寿兵衛の屋敷を応接所として公式の会見が行なわれ(沖ノ口役所が手狭だったのが理由です)、貿易上の様々な便宜、宿舎、遊歩の自由など下田で許されたことなどが伝達されています。
この時に対応したのが松前藩家老・松前勘解由(まつまえかげゆ)ですが、公儀の命がなければ交渉できないなどの理由で、下田での幕府との会合で詳細を決定するように、先延ばししています(松前勘解由の対応は「こんにゃく問答」といわれ、ペリーの『日本遠征日記』にも無気力の男と記されていますが、それが勘解由の作戦でした)。

ペリーの箱館滞在は18日間ですが、「ジブラルタル海峡に似た」(『日本遠征日記』)箱館を気に入ったようで、滞在中に臥牛山(がぎゅうさん=箱館山)に登る、実行寺、称名寺、浄玄寺を訪問など、4度の箱館見物を行なっています。
また、沖之口番所(現在の函館市臨海研究所)付近ではペリー艦隊向けの店も出され、地元住民から1600両分もの土産を購入し、下田に向かって出航しています。

ペリー提督来航記念碑(函館)
名称 ペリー提督来航記念碑(函館)/ぺりーていとくらいこうきねんひ(はこだて)
所在地 北海道函館市弥生町2
関連HP 函館市公式ホームページ
電車・バスで 函館市電末広町停留場から徒歩6分
ドライブで 函館空港から約10km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 函館市観光案内所 TEL:0138-23-5440
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

ペリー上陸地は、全国に6ヶ所も!

東インド艦隊司令長官のペリー提督は、太平洋航路や捕鯨船の補給地確保もあって徳川幕府に開国を迫るため。嘉永6年(1853年)、フィルモア大統領の親書を携え来航、そしてその翌年に日米和親条約を締結、下田、箱館を開港させています。その間に上陸した

 

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