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一乗谷朝倉氏遺跡

1471(文明3)年から戦国大名の朝倉氏が5代103年間にわたって越前国を支配した城下町の跡が一乗谷朝倉氏遺跡。昭和42年から行なわれた調査で、朝倉義景館跡、武家屋敷、寺院、町屋、庭園など戦国時代の町並みがほぼ完全な姿で発掘され、一部の家並みは往時のままに復元されています。遺跡内の4つの庭園は、国の特別名勝に指定。

朝倉氏遺跡内の4つの庭園は国の特別名勝

中世、福井市の南東に位置する一乗谷には、駿河(現・静岡県)の今川氏、周防(すおう=山口県)の大内氏と並び、日本の三大文化大名と呼ばれた戦国大名・朝倉氏が築いた居館、山城と城下町がありました。
応仁の乱を逃れて京からやってきた公家などを受け入れ、京風文化が花開いた人口1万という壮大な城下町と城跡が国の特別史跡となっています。

1573(天正元)年8月16日、一乗谷城の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れます。
朝倉氏の城下町は、8月17日、織田信長の軍勢に火を放たれ灰燼に帰しています。

その後は、開発の手を逃れたのが功を奏し、近年発掘されて山城跡を含め延べ278haが国の「特別史跡」に指定されているのです。
これが一乗谷朝倉氏遺跡で、豊臣秀吉が朝倉義景の善提を弔うために寄進した唐門が現存するほか、国の名勝に指定される4つの庭園跡(一乗谷朝倉氏庭園=湯殿跡庭園・南陽寺跡庭園・諏訪館跡庭園・朝倉館跡庭園)や復元された町並みなどがあります。

桜咲く春は人気のシーズン

春には唐門の内側にある桜の満開にあわせて訪れる人が増え、賑わいをみせます。

「もろともに月も忘るな糸桜 年の緒長き契と思はゞ」(朝倉義秋)、「君が代の時にあひあふ糸桜いともかしこき けふのことの葉」(朝倉義景)と詠われた糸桜も一乗谷朝倉氏遺跡に春を告げています。

「日本100名城」に選定の、一乗谷城は、福井平野を一望できる標高473mの一乗城山に築城された中世の山城。
一度も実戦に使われることなく、廃城となっています。
本丸(千畳敷)は標高416mに位置し、尾根沿いに一の丸、二の丸、三の丸が続いています。

朝倉氏の平時の居館は、一乗谷の中心部に位置する朝倉館。
朝倉館跡正面の堀に面して唐門が築かれています。
現存する唐門は、江戸時代中期の再建です。

朝倉義景
越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代。
当初は朝倉延景と名乗りますが、室町幕府の第13代将軍・足利義輝から「義」の字を与えられ、義景と改名。
細川晴元の娘を迎えて室町幕府と親密な関係を築きます。
足利義輝が松永久秀らによって暗殺されると、足利義秋(足利義昭)を一乗谷の安養寺に迎えますが、義昭が望む上洛戦には冷淡だったため、義昭は美濃の織田信長を頼るようになります。
1568(永禄11)年9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛。
将軍となった足利義昭は、朝倉義景に対して上洛を命じますが義景は拒否。
1570(元亀元)年6月28日、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川で激突(姉川の合戦)。
1573(元亀4)年4月12日、朝倉氏の同盟者で、信長包囲網を敷いていた武田信玄が死去。
1573年(天正元)年8月8日、ついに織田軍は3万の大軍で近江へ進軍し、朝倉攻めを開始。
ついに朝倉氏の滅亡へとつながっていきます。
8月15日、義景は一乗谷に帰還しますが、すでに近江での敗北を知っていた家臣は城と城下を放棄して逃走。
朝倉義景は六坊賢松寺で自刃します。
大野市泉町には朝倉義景墓所が残されています。

一乗谷朝倉氏遺跡
名称 一乗谷朝倉氏遺跡/いちじょうたにあさくらしいせき
所在地 福井県福井市城戸ノ内町
関連HP 福井市公式ホームページ
電車・バスで JR一乗谷駅から徒歩3分、またはJR福井駅から徒歩3分の京福バスターミナルから京福バス浄教寺行きで27分、朝倉館前下車
ドライブで 北陸自動車道福井ICから約8km
駐車場 復原町並南広場(100台/無料)
問い合わせ 一乗谷朝倉氏遺跡管理事務所 TEL:0776-41-2173/FAX:0776-41-3924
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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