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吉崎御坊跡

吉崎御坊跡

文明3年(1471年)、本願寺第8代法主で真宗中興の祖といわれる蓮如(れんにょ)上人が57歳の時に北陸布教の拠点に選んだ金津町吉崎山(現・福井県あわら市吉崎)に造られた坊舎跡が吉崎御坊跡。本願寺の隆盛を妬(ねた)む比叡山僧などの迫害を受けて京から北陸へと逃れた場所で、布教拠点とした約1万坪の御坊跡は、国の史跡になっています。

1万坪の御坊跡は国の史跡

東本願寺・西本願寺共有の地となった吉崎御坊跡は園地として整備され、園内に本堂跡、腰掛け石、見玉尼の墓、本光坊了顕の墓などがあり、高村光雲作の蓮如上人銅像を中心に遊歩道が整備されています。

蓮如の吉崎下向を再現する『蓮如上人御影道中』が毎年4月17日(京都出発)~4月22日(吉崎着)に行なわれ、到着後の4月23日から5月2日には、京都・東本願寺から蓮如上人の画像「御影」を迎えて、盛大な法要『蓮如忌』が営まれています。

永正3年(1506年)、朝倉氏が加賀から越前に侵攻した北陸一向一揆(ほくりくいっこういっき)勢を九頭竜川の合戦で退けた後、吉崎の坊舎は破却され、以後廃坊となっています。

豊臣秀吉の寄進とされる「念力門」がある西別院(浄土真宗本願寺派)は延享3年(1746年)、東別院(真宗大谷派)はその翌年の建立。

御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが建ち並び、全国から信徒が集まり隆盛しましたが文明7年(1475年)、門徒と加賀国主である富樫氏との抗争を避けるため蓮如は一揆を扇動した下間蓮崇を破門し、吉崎を退去し、京・山科に山科本願寺の造営しています。

真宗の教義は「弥陀(阿弥陀如来)の本願」を信じて「念仏」することで当時、他宗に所属する寺社の荘園の年貢を放棄したり、白山本宮などの神事や勤行に納めるはずの公事年貢を収めないという事態が生まれ、富樫氏の勢力低下が明白となっていたのです。

蓮如退去後も、御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが建ち並び、寺内町(自治組織)を形成して繁栄しました。

吉崎御坊跡
名称 吉崎御坊跡/よしざきごぼうあと
所在地 福井県あわら市吉崎2西御山148−2他
関連HP あわら市郷土歴史資料館公式ホームページ
電車・バスで JR芦原温泉駅から町営バス吉崎行きで15分、吉崎下車すぐ
ドライブで 北陸自動車道加賀ICから約4km
駐車場 60台/無料
問い合わせ あわら市郷土歴史資料館 TEL:0776-73-5158
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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