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水戸城・薬医門

水戸城・薬医門

茨城県水戸市、水戸城本丸跡に移築復元されているのが数少ない水戸城の遺構、薬医門。切妻造、茅葺風銅板葺きの薬医門の建築された年代は定かでありませんが、戦国時代末期、佐竹義重・義宣父子の水戸城居城時代、つまりは豊臣秀吉の小田原征伐以降、関ヶ原の合戦以前に建てられたものと推測されています。

水戸城本丸表門と推測される貴重な遺構

明治20年、茨城県令・安田定則(やすださだのり、明治19年に茨城県令就任)が旧三の丸の自邸に移築し、昭和19年、祇園寺に移築されているため、この薬医門が創建時に水戸城のどの場所にあったのかも定かではありませんでしが(水戸城二の丸に入る不開門ともいわれていました)、本丸から二の丸に通じる橋詰御門(本丸橋詰門=本丸の表門)だったのではないかと推測されています。

大手橋の旧擬宝珠には「文禄五年丙申二月吉日建之」(文禄5年=1596年)、明治時代に取り壊された大手門にも「慶長六年辛丑五辰七月吉日」(慶長6年=1601年)と記されていたことから、本丸部分は佐竹義宣(さたけよしのぶ)の秋田転封以前に完成していたことがわかり、わずか13年間の在城の際に築かれた門が現存しているのだと考えられるのです。

皮肉にも、水戸の中心部を焼け野原にした昭和20年8月2日の水戸空襲の戦禍は、旧三の丸から空襲の前年に那珂川に近い八幡町の祇園寺に移設されていたことから奇跡的に免れ(戦後、祇園寺が水戸市に門を寄贈)、貴重な水戸城の遺構として現存したもの。

創建時の位置に近い、現在の茨城県立水戸第一高等学校敷地内(水戸城本丸)に移設されたのは昭和56年のこと。
茨城県の文化財に指定されています。
水戸城では、江戸時代後期の文化年間(1804〜1818)まで城内には茅葺きが多く、代用天守の三階櫓(水戸空襲で消失)でさえ享保9年(1724年)までは板葺きでした。
薬医門も創建当初は茅葺きだったもの。

水戸第一高等学校の敷地内ですが、史跡見学の目的に限り、敷地内に立ち入ることができます。
学校内なので、マナーを守って行動を。

水戸城・薬医門
名称 水戸城・薬医門/みとじょう・やくいもん
所在地 茨城県水戸市三の丸
関連HP 水戸観光コンベンション協会公式ホームページ
電車・バスで JR常磐線水戸駅から徒歩10分
ドライブで 北関東自動車道水戸南ICから約8km。または、常磐自動車道水戸ICから約10km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 弘道館事務所 TEL:029-231-4725
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

水戸城

徳川御三家・水戸徳川家の居城、水戸城は、北を那珂川、南を千波湖に挟まれた、日本最大級の土造りの城。大規模な土塁と深い堀によって防備された城で、江戸時代には三階櫓が代用天守として水戸のシンボルになっていました。土塁や堀、藩校弘道館や薬医門など

 

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