武田信玄の「隠し湯」は有名です。温泉を野戦病院として利用するの方法は、その子・武田勝頼にも受け継がれ、天正3年(1575年)5月、長篠の戦いで徳川・織田連合軍に手痛い敗北を喫すると、すぐさま配下の真田昌幸(さなだまさゆき)に命じて、伊香保温泉を湯治場として整備します。これが今ある石段街の始まりです。
戦国時代末期、伊香保温泉の領主は真田昌幸だった!
真田昌幸は、真田信繁(真田幸村)の父。NHK大河ドラマ『真田丸』では草刈正雄が演じ、以前の『真田太平記』では丹波哲郎が演じた戦国時代屈指の智将です。真田昌幸は、信濃(現・長野県)を領有したい信玄の配下で、7歳の時に人質として府中(現・甲府市)の武田館で武田晴信(信玄)の奥近習衆に加わっています。初陣はもっとも激しい戦いだった第四次川中島の合戦(八幡原の戦い)。家康が浜松城に逃げ帰る際に馬上で脱糞したという逸話が残る三方ヶ原の戦いにも参加しています。
信玄没後は勝頼に仕えますが、中心となる所領は西上州で、永禄8年(1565年)に岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)が武田軍によって落城してからは武田家郡代として真田昌幸が岩櫃城主となり、吾妻郡、西上州を治めました。
傷病兵収容の温泉病院として石段を設計
温泉街は当初、伊香保神社からさらに奥に上った、「黄金(こがね)の湯」の源泉周辺にありました。
伊香保屈指の老舗「千明仁泉亭」をはじめ、わずかな浴舎があっただけです。
長篠の合戦での多数の負傷者の治療のため、365段の石段を築き、石垣を配して石段沿いに温泉街を整備します。
最奥部にある源泉井戸から、源泉を通す木製の湯樋を土中に埋め込み傾斜を利用して、温泉街へとお湯を運びます。
石段の内部には温泉を流す湯樋が通され、温泉を各旅館に配湯するシステムを築き上げました。
石段途中で分湯する口を小間口(小満口)といい、温泉は16ヶ所設けられた小間口から巧みに配湯されています。
石段は長篠の戦いの翌年、天正4年(1576年)に完成し、小間口による分湯方式は寛永16年(1639年)に規定された制度です。
源泉を加熱なしで長湯したので治療効果もアップした
温泉の泉質は、カルシウム・ナトリウム-硫酸塩・炭酸水素塩・塩化物泉(含重曹食塩-石膏泉)。
源泉温度は41.6度。これを湯樋を通して運ぶわけなので、湯宿ではかなり温めになります。
切り傷にも効能ある温泉に、源泉掛け流しで長く浸かることができるので、治療効果も高まります。
「単に長篠の合戦などの戦(いくさ)で傷を負った傷病兵を癒やすだけでなく、上杉や北条の進攻を見張る場所、箕輪城(現在の高崎市箕郷町にあった城で武田氏の上州の拠点)を守る砦(とりで)の役割も果たしていました」と郷土史家は語ります。
天正8年(1580年)に、真田昌幸は沼田城を攻略して、上州一帯を領地としました。
武田勝頼が織田軍に追われ敗走する際には、甲斐国(山梨県)を捨てて上野国(群馬県)吾妻地方に逃げるように進言。
天然の要害である岩櫃城(いわびつじょう/群馬県吾妻郡東吾妻町)へ迎える準備をしていましたが、小山田信茂の岩殿城(山梨県大月市)へと向かいますが、信茂の離反にあい、天目山(甲州市大和町)で自刃します。
こうして、日本初の温泉都市計画ともいえる伊香保温泉石段街は、徳川幕府下の小間口による分湯方式へと引き継がれていきます。
伊香保温泉・石段街 | |
名称 | 伊香保温泉・石段街/いかほおんせん・いしだんがい |
所在地 | 群馬県渋川市伊香保町伊香保 |
関連HP | 渋川市公式ホームページ 渋川伊香保温泉観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR渋川駅から関越交通バス伊香保温泉行きで27分、終点下車、徒歩5分 |
ドライブで | 関越自動車道渋川伊香保ICから約11km |
駐車場 | 徳冨蘆花記念文学館駐車場(70台/有料) |
問い合わせ | 渋川伊香保温泉観光協会 TEL:0279-72-3151 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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