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武蔵坊弁慶墓碑

武蔵坊弁慶墓碑

岩手県西磐井郡平泉町、世界文化遺産「平泉の文化遺産」お中心的存在となる中尊寺の表参道・月見坂の入口に立つのが武蔵坊弁慶墓碑。江戸時代、中尊寺の僧・素鳥(そちょう)の詠んだ歌「色かえぬ松のあるじや武蔵坊」が刻まれた石碑です。周囲を囲むのが弁慶松と呼ばれる松。

武蔵坊弁慶の墓所だと伝承される地

文治5年閏4月30日(1189年6月15日)、源義経の居館、衣川館(現・高館義経堂)を攻撃された際、義経と義経の正室・郷御前(さとごぜん)、そして4歳になる義経の子を守り、追討軍の前に立ちはだかったとされるのが、武蔵坊弁慶。
死後、亡骸が松の根元に埋められたと伝えられ、そこに後世立てられたのが武蔵坊弁慶墓碑です。

ただし、武蔵坊弁慶の武勇伝に関しては『義経記』など後世の創作で、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも、義経郎党の一人として名が記されているのみ。
つまり、堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘し、身体に矢を受けながらもその場を退かず、立ったまま命が絶えたという「弁慶の立ち往生」も後世の創作ということに。
歌舞伎の『勧進帳』も江戸・河原崎座で7代目・市川団十郎の弁慶、2代目・市川九蔵(いちかわくぞう)の市川九蔵(後の六代目團蔵)の富樫左衛門、8代目・市川團十郎の義経、そして海老蔵の弁慶により初演。
現在見られる型は明治時代、九代目・市川團十郎により完成されたものです。

平泉にある弁慶堂ももともとは火伏せの神として勝軍地蔵菩薩を祀る愛宕堂だった堂。
義経・弁慶の木像を安置し、明治の神仏分離以降、市川團十郎による『勧進帳』の隆盛を背景に弁慶堂になったものです。

武蔵坊弁慶墓碑
名称 武蔵坊弁慶墓碑/むさしぼうべんけいぼひ
所在地 岩手県西磐井郡平泉町衣関
関連HP 平泉町公式ホームページ
電車・バスで JR平泉駅から岩手県交通バス中尊寺・水沢行きで4分、中尊寺下車、徒歩15分。またはJR一ノ関駅から岩手県交通バス中尊寺・水沢行きで22分、中尊寺下車
ドライブで 東北自動車道平泉前沢ICから約4km
駐車場 町営中尊寺第1・第2駐車場(350台/有料)
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

中尊寺

嘉祥3年(850年)、慈覚大師(円仁)が開山した平泉の名刹が中尊寺。天台宗東北大本山で、山号は関山(かんざん)、本尊は阿弥陀如来。長治2年(1105年)、奥州藤原氏初代・藤原清衡(ふじわらのきよひら)が21年の歳月を費やし堂塔40、僧坊30

源義経妻子の墓

岩手県西磐井郡平泉町、平泉の空間設計の基準となった信仰の山、金鶏山(きんけいさん)の登山口に立つ2基の五輪塔が、源義経妻子の墓。金鶏山の麓には、藤原3代の位牌を祀る千手堂がありますが、その傍らの五輪塔が、源義経の正室・郷御前(さとごぜん)と

高館義経堂

奥州平泉(岩手県平泉町)、中尊寺の東南にある丘陵地・高館(たかだち)は、兄・源頼朝に追われ奥州へと逃げた源義経が居館としていた場所で、文治5年4月30日(1189年6月15日)、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の急襲を受け、妻子とともに自害し

 

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