鹿児島県大島郡喜界町、喜界島の表玄関、湾港、喜界空港近くにあるのが、俊寛の墓(しゅんかんのはか)。平家転覆の密議が発覚し、喜界島に流罪となった俊寛僧都(しゅんかんそうず)は、首謀者であることから赦免されることなく、治承3年3月2日(1179年4月10日)、喜界島で没したと伝えられています。
俊寛が流された島は、実は硫黄島の可能性も・・・
密告により陰謀(鹿ケ谷の陰謀)は露見し、俊寛は後白河法皇に近侍した藤原成経(ふじわらのなりつね)、平康頼(たいらのやすより)とともに鬼界ヶ島(薩摩国)へと流されています。
藤原成経と平康頼は1000本の卒塔婆を作り海に流し、そのうちのひとつが厳島神社(宮島)に流れ着いたことに平清盛は感動し、藤原成経と平康頼を徳子の安産祈願として恩赦にしていますが、俊寛は許されることなく、島で没しています。
俊寛が流された「鬼界ヶ島」については、硫黄島(鹿児島県鹿児島郡三島村)とする説などもあり、定かでありませんが、喜界島では坊主前(ぼうずんめい)と呼ばれる地に墓があり、俊寛が眠る地としては候補地です。
ただし、鎌倉時代の歴史書、『吾妻鏡』正嘉2年(1258年)9月2日条に、平康頼の孫・平俊職(たいらのとしもと)が祖父である平康頼と同じ硫黄島に流されたと記されており、『源平盛衰記』、『延慶本・平家物語』、『長門本・平家物語』などに鬼界ヶ島とは黒島、硫黄島など12の島の総称とされることから、流罪になったのは喜界島ではなく、硫黄島であることが有力。
平安時代、喜界島は琉球との関係が深く(琉球王国の成立以前です)、京の都の勢力下ではない、はるかな地だったことも大きな理由です。
俊寛の墓 | |
名称 | 俊寛の墓/しゅんかんのはか |
所在地 | 鹿児島県大島郡喜界町湾 |
関連HP | 喜界町公式ホームページ |
ドライブで | 喜界空港から約800m |
駐車場 | あり/無料 |
問い合わせ | 喜界町企画観光課 TEL:0997-65-1111/FAX:0997-65-4316 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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