鹿児島県肝属郡南大隅町にある幕末の砲台跡が、瀬脇砲台跡。嘉永4年(1851年)、薩摩藩は攘夷(じょうい=外敵を撃ち払って入国させない)の目的で瀬脇砲台、と辺田原に根占砲台(現・台場公園)を築き、大砲1門を構えています。瀬脇砲台跡が史跡として保存され、見学が可能。
幕末に薩摩藩が築いた砲台の跡
文久2年(1862年)、武蔵国生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)の東海道で、薩摩藩の大名行列に誤って馬で乗り込んだイギリス人を無礼討ちにした生麦事件が勃発。
イギリス政府は艦隊を錦江湾に送り、文久3年7月2日〜7月4日(1863年8月15日〜8月17日)、薩英戦争へと発展します。
生麦事件の発生後、原台場とともに拡張構築が行なわれ、現在の姿の砲台にになりました。
薩英戦争時には小根占郷士だけでなく、大姶良郷、田代郷からも瀬脇台場に出兵し、170余名がこの砲台に大砲、小銃などを据えイギリス艦隊の来攻に備えますが、結局交戦することはなく、砲弾も発射されていません。
薩英戦争の際には、薩摩藩士・折田要蔵(おりたようぞう=明治維新後は湊川神社の初代宮司に/NHK大河ドラマ『青天を衝け』では徳井優が好演)が薩摩藩の摂海防禦御台場築造御用掛に任命され、砲台の建造と大砲製造を主導しています。
十柱神社を目指して根占港の車道終点まで歩き、そこから建物横の踏み跡を伝えば、瀬脇砲台跡に出ることができます。
瀬脇砲台跡、敵の砲撃から兵士や大砲を守る胸壁が、現存。
胸壁は全長23m、高さ2m、弾丸が発射される砲門部分も確認できます。
砲台背後の標高87mの山頂部には、中世の城、瀬脇城の跡があります。
画像協力/(公社)鹿児島県観光連盟
瀬脇砲台跡 | |
名称 | 瀬脇砲台跡/せわきほうだいあと |
所在地 | 鹿児島県肝属郡南大隅町根占川南1183 |
電車・バスで | 根占港(根占フェリー乗り場)から徒歩15分 |
ドライブで | 根占港から約1km |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 南大隅町教育委員会 TEL:0994-24-3164 |
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