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報徳二宮神社

報徳二宮神社

明治政府が富国強兵政策を推進する明治27年、二宮尊徳を祭神として小田原城本丸南側の小峰曲輪に創建された神社が報徳二宮神社。二宮尊徳(にのみやたかのり)は、相模国足柄上郡栢山村(現・小田原市栢山)の出。経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した二宮尊徳を祀る神社です。

経世家、農政家、尊徳の偉業を称える神社

地主でもあった二宮尊徳は小田原城下に出て小田原藩家老服部家で武家奉公人として働きます。
そこで見事に服部家の財政を再建したことから、小田原藩内で有名になり、下野国桜町領(現・栃木県真岡市)の農業改革に取り組みます。
これが「報徳仕法」と呼ばれる尊徳独自の農村復興政策。
二宮尊徳は報徳社を設立して農村復興に従事しますが日光今市での没後も、報徳社は機能。
伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模6ヶ国の報徳社の総意で創建された故郷の神社が報徳二宮神社というわけなのです。

天保の大飢餓の際に、藩主の命で二宮尊徳が小田原城内の米蔵を開いたことにより、困窮した多くの人々が救済されてもいるので、小田原にとっても恩人。
拝殿の礎石は、その時の小田原米蔵の礎石。

境内の二宮金次郎像には「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は寝言である」という有名な言葉が刻まれています。
二宮尊徳は生涯で600余の村に実りを取り戻し、農村を再建することに成功しています。

全国の小学校などに戦前建立された二宮金次郎像は、「負薪読書図」(薪を背負いながら本を読んで歩く姿)ですが、その初出は明治24年刊、幸田露伴の『二宮尊徳翁』に小林永興(こばやしえいこう)が描いた口絵です。

境内にある二宮金次郎像は、昭和3年、昭和天皇即位御大礼記念としてベストセラー『五大州探検記』の著者(押川春浪との共著)・中村直吉(なかむらなおきち/明治34年に世界一周旅行に旅立ち、その冒険談がベストセラーに)が寄進したブロンズ像で、彫金師の3代目・慶寺丹長(けいじたんちょう)作(当時、長さの単位として新たにメートル法が導入され、身長はちょうど1mに)。
同じ像は、全国の小学校に向けて1000体余制作されましたが、戦時中の金属供出で、現在残っているのは、この一体だけとなっています。

例祭は4月15日で、これは明治27年に社殿が創建された日を記念して。

ちなみに報徳二宮神社は終焉の地・日光市今市、そして戦後に地域発展のため小田原市から分霊した相模原市南区相模大野にもあります。

幸田露伴『二宮尊徳翁』の口絵
名称 報徳二宮神社/ほうとくにのみやじんじゃ
所在地 神奈川県小田原市城内8-10小田原城址公園内
関連HP 報徳二宮神社公式ホームページ
電車・バスで JR・小田急・箱根登山鉄道・伊豆箱根鉄道小田原駅から徒歩20分、小田原城址公園経由で徒歩15分
ドライブで 西湘バイパス小田原ICから約2.5km。小田原厚木道路荻窪ICから約3km
駐車場 50台/無料
問い合わせ TEL:0465-22-2250/FAX:0465-23-3286
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

小田原城址公園

北条早雲をはじめとする後北条氏が、5代96年におよぶ栄華を極めた小田原城。後北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、小田原高校の建つ八幡山に詰めの城を配しました。豊臣秀吉の小田原攻めに対抗するために周囲9kmにも及ぶ土塁と空堀の外郭を築き、

 

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