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東勝寺跡

東勝寺跡

鎌倉葛西ケ谷にある鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の菩提寺で、関東十刹(かんとうじゅっさつ)に数えられた東勝寺の跡地。栄西の弟子の退耕行勇(たいこうぎょうゆう)が鎌倉幕府第3代執権・北条泰時(御成敗式目を制定したことで有名)の命で開山。東勝寺合戦で新田義貞の戦火を受けて焼失、廃寺となっています。

実はここが鎌倉幕府終焉の地(東勝寺合戦場)

北条高時腹切りやぐら

目の前を滑川が流れ背後は丘陵という地形は、有事に備えた城塞(詰の城)の意味もあったと推測されます。
後醍醐天皇が笠置山で挙兵したこと呼応し、上野国新田荘(現・群馬県太田市周辺)の生品明神社(生品神社)社頭で鎌倉幕府倒幕の挙兵をした新田義貞(にったよしさだ)は、小手指原の戦い(こてさしがはらのたたかい/現・埼玉県所沢市)、分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい/現・東京都府中市)で勝利を収め、稲村ヶ崎から鎌倉へと進軍。
元弘3年5月22日(1333年7月4日)の東勝寺合戦では、新田軍に追い詰められた鎌倉幕府第14代執権・北条高時は、東勝寺に籠城するも家臣とともに自刃しています(享年29)。
というわけで、この地が鎌倉幕府終焉の地にもなっているのです。

東勝寺跡の北には「北条高時腹切りやぐら」と呼ばれるやぐらがありますが、発掘調査では遺骨は出土していません。
東勝寺での戦死者の遺体は、鎌倉市浄明寺の釈迦堂谷の奥に葬られたという伝承があり、宅地開発の際に「元弘三年五月廿八日」の銘のある五輪塔が発掘され、東勝寺合戦の戦没者の初七日(しょなのか)の慰霊祭が行なわれたことが推測できます。

鎌倉市小町にある天台宗の寺、宝戒寺(ほうかいじ)は、北条高時の慰霊のため、北条得宗家(ほうじょうとくそうけ)の屋敷跡に後醍醐天皇が建立したもの。
北条高時は、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、権現(神仏習合)として宝戒寺に祀られているのです。
鎌倉幕府が滅亡した5月22日に、宝戒寺では北条高時の慰霊のため、『徳崇大権現会・大般若経転読会』が行なわれています。

東勝寺跡
名称 東勝寺跡/とうしょうじあと
所在地 神奈川県鎌倉市小町3
関連HP 鎌倉市公式ホームページ
電車・バスで JR鎌倉駅から徒歩15分
ドライブで 横浜横須賀道路朝比奈ICから約5km
駐車場 なし
問い合わせ 鎌倉市文化財課 TEL:0467-61-3857
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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