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電信創業の地

電信創業の地

神奈川県横浜市の日本大通り沿いに建つ横浜地方検察庁玄関脇に設置されるのが電信創業の地の碑。明治2年9月19日(1869年10月23日)、横浜裁判所と東京築地運上所の間に設けられた「傳信機役所」を結ぶ32kmの電信線架設工事が開始され、12月25日(1870年1月26日)に業務を開始。これが日本の公衆電気通信の最初。

寺島宗則とブラントンの尽力で電気通信実現

安政6年6月2日(1859年7月1日)に開港した横浜港ですが、欧米先進国の文明は荒波のように押し寄せます。
慶応3年(1867年)12月、横浜州干町の貞治郎と、江戸深川の栄蔵という2人が共同計画し、江戸〜横浜間に銅線を引くという計画がありました。
この申請は正式に奉行所に認可されたのですが、明治維新の混乱のため実現していません。

神奈川府判事兼横浜外国官判事の職にあった寺島宗則(てらしまむねのり/日本の電気通信の父)は、東京~横浜間の通信を迅速に行なうため、電信架設の必要性を痛感し、明治元年9月7日、電信開設の建議書を外国官(現在の外務省)に提出。
この建議書が導火線となって、ついに官営による電信線架設に踏み切ることになります。

寺島宗則は、当時、灯台建設のため来日していたお雇い外国人のリチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton/日本大通りも明治4年、ブラントンの設計)に仲介を依頼し、イギリス政府との商談を進めます。
商談は成功し、イギリスからの電信技師派遣、電信機器類の購入などが叶い、鉄道会社で電信技師をしていたジョージ・マイルス・ギルベルト(George Miles Gilbert)が明治2年2月、横浜港に上陸。
さらにフランス製ブレゲ指字電信機(フランスのブレゲ社が19世紀に製作した電信機/明治5年にモールス方式の電信機に変更されています)などの電信機器が届いたのです。

日本におけるの電信の始まりは、明治2年8月9日、ブラントンの灯台づくりの拠点となった横浜燈明台役所(全国の灯台勤務者の訓練所としても機能)から横浜裁判所間(770m)に、官用電気通信として開始したのが最初。
それに遅れること4ヶ月ほどで公衆電気通信が始まったことになるので、寺島宗則の熱意のほどが伝わってきます。

電信の価格は横浜〜東京間で「かな1文字=銀1分(1厘6毛)、配達は1里=銀7匁2分」で、欧文の場合には「20字音信=金1歩(25銭)、住所氏名は6字以内は無料、配達は2里まで無料」でした。
ちなみに明治初期にはそば1杯が5厘~1銭なので、かなを4文字打つだけでそば1杯分の値段ということに。

東京側(東京築地運上所)は、勝鬨橋(かちどきばし)にも近い東京都中央区明石町13にも同様の碑が立っています。

名称 電信創業の地/でんしんそうぎょうのち
所在地 神奈川県横浜市中区日本大通
電車・バスで JR・横浜市営地下鉄関内駅から徒歩10分。横浜高速鉄道みなとみらい線日本大通り駅から徒歩すぐ
ドライブで 首都高速横羽線横浜公園ランプから約900mで市営日本大通り地下駐車場
駐車場 市営日本大通り地下駐車場(200台/有料)など周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

神奈川運上所跡

神奈川県横浜市にある神奈川県庁の南側・日本大通り沿いに立っているのが神奈川運上所跡の碑。安政5年(1858年)、江戸幕府がアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダそれぞれと結んだ修好通商条約(安政五カ国条約)により、安政6年(1859

 

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