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坂本龍馬・住谷寅之助会見の地

坂本龍馬・住谷寅之助会見の地

高知県大豊町(おおとよちょう)、土佐街道(土佐北街道)・立川番所の上流500mほどの荷宿(にやど)地区は、藩政時代、周辺の産物などの集散地だった場所。安政5年11月17日(1858年12月21日)、坂本龍馬は水戸藩の浪士・住谷寅之助、大胡聿蔵(だいごいつぞう)の2人と会見。会見場所は特定されていませんが、看板が立てられています。

坂本龍馬が政治に目覚めたともいえる会談の地

2人の水戸浪士は土佐国で尊王攘夷思想(そんのうじょういしそう=水戸学の影響を受けた君主を尊び、外敵を斥けようとする思想)を説くためこ荷宿まで来ましたが、立川番所を目前にして入国手形を持っていないため、坂本龍馬や川久保為助、甲藤馬太郎(かっとううまたろう)らに入国の仲介を依頼します。
しかし、坂本龍馬はまだ弱冠24歳で、期待に応える権限もなく、住谷寅之助は『廻国日記』の中で龍馬は誠実で愛すべき人物であわせて剣撃家ではあるものの(「龍馬誠実可也ノ人物、併撃剣家」)、「事情迂闊、何も不知トソ」(政治に疎く、世間知らず)と失望しているのです(坂本龍馬が政治に目覚めるのは土佐勤王党加盟以降の27歳頃といわれています)。
この時、水戸藩士から聞いた尊王攘夷思想や、江戸の政情などが「脱藩の志」につながったと推測できます。
坂本龍馬と会談した住谷寅之助は、同志とともに大老・井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺(桜田門外の変)を企てた人物で(桜田門外の変の際には獄中)、幕末の激動を感じさせる会談だったことがわかります。

会談の場所となったという木屋岩吉の家はどこにあったのか定かでありませんが、荷宿地区には立川御殿保存会による「荷宿跡坂本龍馬住谷寅之助会見の地」の看板が立てられています。
また、土佐藩主参勤交代の際に利用した「土佐北街道・笹ヶ峰越」は、文化庁の「歴史の道百選」に選定、また参勤交代の本陣で、土佐最後の宿所だった旧立川番所書院は国の重要文化財に指定されています。

坂本龍馬・住谷寅之助会見の地
名称 坂本龍馬・住谷寅之助会見の地/さまもとりょうま・すみやとらのすけかいけんのち
所在地 高知県長岡郡大豊町立川下名
ドライブで 高知自動車道大豊ICから約13km
駐車場 5台/無料
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

旧立川番所書院

愛媛県、徳島県の県境に接する高知県大豊町(おおとよちょう)。旧立川番所書院は、土佐藩の参勤交代における土佐街道(土佐北街道)途中、土佐最後の宿所で、国境警備の拠点となった立川番所(関所)の跡。藩主の宿泊所でもあり、御殿と呼ばれた立川番所の

 

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