サイトアイコン ニッポン旅マガジン

山田堰跡

山田堰跡

高知県香美市土佐山田町を流れる一級河川・物部川(ものべがわ)に築かれた堰(ダム)の跡が、山田堰跡(やまだぜきあと)。寛永13年(1636年)、土佐藩の執政(家老)となった野中兼山は、山田堰の建設などの物部川の治水を行ない、舟入、中井、上井の三用水の利水による新田開発を実施しています。

物部川緑地公園に遺構の一部が現存

野中兼山は、江戸時代初期に物部川の山田堰、仁淀川の八田堰などの治水灌漑による新田開発、在郷町の開発、港湾開削などのインフラ整備に尽力しますが、賦役の厳しさから民衆の怨嗟を生み、さらには藩内にも対立や反発を招いて、ついに失脚。
香長平野の新田開発事業の拠点として構えた山田中野(現・香美市土佐山田町)の別宅「明夷軒」に蟄居。
さらに遺族らは男系の後継が絶えるまで40年にも及び宿毛の地にて幽閉され、矢来に囲まれた幽閉所より一歩も外に出ることが許されませんでした。

娘の野中婉(のなかえん)は、土佐藩の女医となり、非業の死を遂げた父母や兄弟姉妹の菩提を弔うためのお婉堂(現在の野中神社)を山田上野(現・香美市土佐山田町)に建立しています。

野中兼山が築いた山田堰は、物部川を堰き止めるかたちで湾曲して築かれた全長327mの堰。
寛永16年(1639年)に着工し、寛文4年(1664年)までの26年を費やすという難工事でした。

山田堰自体は、上流に物部川合同堰が昭和48年に完成したことに伴って役割を終え、東岸に20m、西岸に70mを残して撤去されています。
一帯は物部川緑地公園として整備され、野中兼山の築いた山田堰の井口は、物部川堤防改修の時に掘り出されているほか、堰の一部が遺構として保存されています。

高知県長岡郡本山町の大原富枝文学館は、『婉という女』で野中兼山、野中婉を描いた大原富枝の文学館で、野中兼山の展示コーナーが充実しています。

山田堰跡
名称 山田堰跡/やまだぜきあと
所在地 高知県香美市土佐山田町山田島
関連HP 香美市公式ホームページ
電車・バスで JR土佐山田駅からタクシーで10分
ドライブで 高知自動車道南国ICから約9km
駐車場 物部川緑地公園駐車場を利用
問い合わせ 香美市観光協会 TEL:0887-52-8560
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

大原富枝文学館

高知県長岡郡本山町本山にあるミュージアムが、大原富枝文学館。大正元年、高知県長岡郡吉野村(現・本山町)に生まれた小説家で芸術院会員だった大原富枝。生原稿など貴重な資料の展示に加え、代表作『婉という女』(第14回毎日出版文化賞、第13回野間文

野中兼山邸跡

高知県香美市土佐山田町にある江戸時代初期の土佐藩執政(家老)・野中兼山の邸跡が、野中兼山邸跡。同じ土佐山田町の山田堰築造、柏島石堤を構築するなど、積極的なインフラ整備が庶民の生活を圧迫し、怨嗟の声が高まって失脚。別宅「明夷軒」に蟄居し、3ヶ

野中兼山一族幽閉地

高知県宿毛市、宿毛小学校のプール近くにあるのが野中兼山一族幽閉地。江戸時代初期の土佐藩家老・野中兼山は、港湾整備や新田開発などのインフラ整備に尽力しますが、過酷の労働への反発、さらには庶民の生活を圧迫し、怨嗟の念が高まって失脚。一族は宿毛に

野中兼山像

高知県長岡郡本山町の帰全山公園(きぜんざんこうえん)に立つのが、野中兼山像(のなかけんざんぞう)。高知平野の水田開発、築港整備などで辣腕を発揮した高知藩の執政(家老)、野中兼山の銅像が帰全山公園に立つのは、公園に野中兼山の母・秋田万(あきた

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

モバイルバージョンを終了