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天王山

天王山

京都府乙訓郡大山崎町にそびえる標高270mの山、天王山。西山腹が摂津国(大阪府)と山城国(京都府)の国境に位置し、山城盆地の西にそびえる西山の南端。山頂近くに位置する酒解神社(さかとけじんじゃ)が牛頭天王を祀ることがその名の由来です。戦国時代の山崎の合戦が俗に「天下分け目の天王山」といわれたことから有名な山になっています。

「天下分け目の天王山」の語源はここ!

天王山の山麓には名神高速道路、東海道本線・東海道新幹線が走り、淀川が流れる交通の要衝。
戦国時代には西国からの京の入口ということから、戦略的にも重要な地で、羽柴秀吉(豊臣秀吉)(の天下取りの舞台ともなっています。

天正10年6月2日(1582年6月21日)に本能寺で織田信長を討った明智光秀は(本能寺の変)、備中高松城の毛利攻めから引き返した(旧暦6月3日に信長討たれるの情報を入手し、以降10日間にわたる軍団大移動=「中国大返し」)羽柴秀吉軍を天王山近くで迎え撃ちます。
天正10年6月13日(1582年7月2日)に天王山周辺で行なわれた羽柴秀吉軍と明智光秀軍との合戦、これが山崎の合戦で、世にいう「天下分け目の天王山」です。

ただし、戦場となったのは山岳部ではなく(あくまで戦場を見渡す陣営が配置されただけ)、天王山の東側の湿地帯が主戦場で、勝負の分かれ目は、淀川沿いの戦いにありました。
羽柴軍が占拠する山崎の町と湿地帯が明智光秀の思い描く戦闘イメージを拒んだのです。
天王山中腹の宝積寺に本陣を置いた羽柴秀吉は、宝積寺で指揮したことから「天下分け目の天王山」に(ただし天王山を重視したのは後世の創作です)。
破れた明智光秀は勝龍寺城(現・長岡京市)へと逃げ込んでいます。

「秀吉の道」を使って天王山を制覇!

JR山崎駅側から天王山に登るハイキングコースが、地元・大山崎町が「秀吉の道」として整備し、秀吉の天下取りの物語を解説する陶板の案内板を6ヶ所設置しています。
幅5m超という巨大なものもあり、合戦の絵図などで天下分け目の激戦を知ることができる仕組み。
解説文は、作家で経済評論家の堺屋太一氏によるもの。
平成8年のNHK大河ドラマ『秀吉』(主演:竹中直人)の原作者。
『秀吉〜夢を超えた男〜』、『豊臣秀長』、『鬼と人と 信長と光秀』などの歴史小説も執筆しているので、秀吉賛美ではなく、明智光秀の視点も入った解説になっています。

コースは山麓ののアサヒビール大山崎山荘美術館近くから、秀吉の本陣が置かれた宝積寺を通り、三川合流展望広場、旗立松展望台、酒解神社を経て天王山山頂広場の到達するもの。
往復4.5km、所要1時間30分。

天王山
名称 天王山/てんのうざん
所在地 京都府乙訓郡大山崎町大山崎
関連HP 大山崎町公式ホームページ
電車・バスで JR山崎駅・阪急京都線大山崎駅から徒歩20分で登り口。山頂までは徒歩50分
ドライブで 名神高速道路大山崎ICから約2kmで大山崎ふるさとセンター
駐車場 大山崎町営駐車場=ふるさとセンター(50台/有料)
問い合わせ 大山崎町政策総務課企画観光係 TEL:075-956-2101
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

山崎の戦いで明智光秀本陣は、恵解山古墳に置かれた!?

京都府長岡京市にある国の史跡・恵解山古墳(いげのやまこふん)。実はこの古墳、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀が、「中国大返し」から戻る羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を迎え撃った山崎の戦いで本陣を置いた場所という可能性が高まっています。墳丘長1

勝竜寺城(細川ガラシャ輿入れの城)

京都府長岡京市勝竜寺にある中世から近世初期の城郭が、勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)。細川忠興・ガラシャ夫妻はこの城で祝言をあげ、ゆかりの城となっています。天正10年(1582年)の本能寺の変直後は、明智光秀が羽柴秀吉を迎え撃つ拠点ともなり

 

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