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千利休聚楽屋敷跡

千利休聚楽屋敷跡

茶人、千利休(せんのりきゅう)が京の聚楽第(じゅらくだい)内に構えた屋敷の跡が千利休聚楽屋敷跡。豊臣秀吉が政庁兼邸宅として天正15年(1587年)に聚楽第を完成させると、千利休も屋敷を構えますが、その跡地(京都市上京区)には千利休居士聚楽屋敷趾(せんのりきゅうこじじゅらくやしきあと) の石碑が立っています。

晴明神社横に千利休の屋敷跡の石碑が!

京都市上京区の晴明神社の社前横に、千利休居士聚楽屋敷趾の石碑が立っていますが、山田宗徧(やまだそうへん)が元禄4年(1691年)に著した『茶道要録』に「葭屋町通り元誓願寺下ル町」と記された屋敷は、晴明神社の隣接地。
石碑は平成16年に建立されたものです。

千利休は、晴明神社にある晴明井の水を茶の湯に使ったとも伝えられています。

天正19年(1591年)、千利休は突然、豊臣秀吉から堺の自邸に蟄居(ちっきょ)を命じられ(原因は定かでありません)、前田利家、古田織部、細川忠興らの助命嘆願をも聞かず、天正19年2月28日(1591年4月21日)、この聚楽屋敷で切腹しています。
さらに屋敷に近い一条戻橋で、利休の首は梟首(さらしくび)にされているので、秀吉の怒りはよほどのことだったと推測できます。

利休屋敷も秀吉の命で取り壊され、大徳寺・高桐院には利休屋敷の一部と伝えられる書院が残されています。

切腹の前に作った遺偈(ゆいげ)

人生七十(じんせいしちじゅう)
力囲希咄(りきいきとつ)
吾這寶剣(わがこのほうけん)
祖佛共殺(そぶつともにころす)
提る我得具足(ひっさぐるわがえぐそく)の 一太刀(ひとつたち) 今此時(いまこのとき)ぞ 天に抛つ(なげうつ)

注/千利休の遺偈(ゆいげ=禅僧が末期に臨んで門弟や後世のためにのこす偈)は、禅語を含み難解なもので、諸説あって定かでありません

千利休聚楽屋敷跡
名称 千利休聚楽屋敷跡/せんのりきゅうじゅらくやしきあと
所在地 京都府京都市上京区堀川通一条上ル晴明町806
電車・バスで 地下鉄烏丸線今出川駅から徒歩15分。または、JR京都駅から市バスで15分、一条戻り橋下車、徒歩2分
駐車場 なし/周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

千利休屋敷跡

大阪府堺市堺区にある史跡が千利休屋敷跡(せんのりきゅうやしきあと)。わび茶(草庵の茶)の完成者、千利休は大永2年(1522年)、和泉国・堺の商家「魚屋」(ととや)で生誕。本名は田中與四郎で、17歳から北向道陳(きたむきどうちん )

聚楽第

豊臣秀吉が平安京の大内裏(だいだいり=平安宮)のあった内野(うちの)に天正15年(1587年)に築いた政庁兼邸宅が聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)。平成4年、本丸東堀跡から金箔瓦600点余が出土し、聚楽第址の石碑が立てられています。目下

大徳寺・高桐院

京都府京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山、大徳寺の塔頭(たっちゅう)のひとつが高桐院(こうとういん)。慶長7年(1602年)頃、千利休七哲の一人、細川忠興(ほそかわただおき)が父・細川幽斎(細川藤孝)の菩提を弔うために創建。方丈南庭

三大茶人とは!?

「侘び寂び」の千利休、「へいげもの」の古田織部、「綺麗さび」の小堀遠州が俗にいう三大茶人。信長、秀吉、家康と関わりながら、三千家の祖となった千利休、茶道織部流の祖の古田織部、そのふたりを受け継いだ遠州流茶道の祖、小堀遠州と、今に伝わる茶道の

 

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