三大茶人とは!?

三大茶人

「侘び寂び」の千利休、「へいげもの」の古田織部、「綺麗さび」の小堀遠州が俗にいう三大茶人。信長、秀吉、家康と関わりながら、三千家の祖となった千利休、茶道織部流の祖の古田織部、そのふたりを受け継いだ遠州流茶道の祖、小堀遠州と、今に伝わる茶道の流れを築いた3人です。

千利休(田中与四郎)

生誕年:大永2年(1522年)
生誕地:和泉国・堺の商家「魚屋」(ととや)/大阪府堺市に千利休屋敷跡(伝承地)があります
略歴・功績:堺の豪商茶人であった今井宗久、津田宗及とともに、織田信長に茶堂として召し抱えられ、信長没後は、豊臣秀吉に仕え、秀吉が築城した大坂城に茶室を築くなど、活躍。
天正13年(1585年)、黄金の茶室を設計、天正15年(1587年)には、北野大茶湯を主管。
聚楽第(じゅらくだい)内に屋敷を構え、権勢を誇りますが、天正19年(1591年)、突如、豊臣秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居(ちっきょ)、その後、京に呼び戻され、聚楽屋敷で切腹。
首は一条戻橋で梟首(さらしくび)に。
死没年月日:天正19年2月28日(1591年4月21日)
死没理由・場所:聚楽屋敷(切腹)、その後、利休の首は一条戻橋で梟首(さらしくび)
墓所:大徳寺・聚光院(京都市)
備考:大徳寺・高桐院の書院「意北軒」(いほくけん)は豊臣秀吉の逆鱗に触れ、切腹を命じられた千利休の邸宅(聚楽屋敷)を移築したものと伝承

千利休屋敷跡

千利休屋敷跡

大阪府堺市堺区にある史跡が千利休屋敷跡(せんのりきゅうやしきあと)。わび茶(草庵の茶)の完成者、千利休は大永2年(1522年)、和泉国・堺の商家「魚屋」(ととや)で生誕。本名は田中與四郎で、17歳から北向道陳(きたむきどうちん )

千利休聚楽屋敷跡

千利休聚楽屋敷跡

茶人、千利休(せんのりきゅう)が京の聚楽第(じゅらくだい)内に構えた屋敷の跡が千利休聚楽屋敷跡。豊臣秀吉が政庁兼邸宅として天正15年(1587年)に聚楽第を完成させると、千利休も屋敷を構えますが、その跡地(京都市上京区)には千利休居士聚楽屋

大徳寺・高桐院

大徳寺・高桐院

京都府京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山、大徳寺の塔頭(たっちゅう)のひとつが高桐院(こうとういん)。慶長7年(1602年)頃、千利休七哲の一人、細川忠興(ほそかわただおき)が父・細川幽斎(細川藤孝)の菩提を弔うために創建。方丈南庭

千利休居士遺蹟・不審菴

千利休居士遺蹟・不審菴

京都府京都市上京区にある表千家流家元の茶室が千利休居士遺蹟・不審菴(せんのりきゅうこじいせきふしんあん)。千利休は、豊臣秀吉の逆鱗に触れ、天正19年2月28日(1591年4月21日)に聚楽第(じゅらくだい)の聚楽屋敷で切腹させられていますが

大徳寺・聚光院

大徳寺・聚光院

京都府京都市北区紫野(むらさきの)、臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の塔頭(たっちゅう)が聚光院(じゅこういん)。千利休が開祖・笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)のもとに参禅したことから千利休の墓をはじめ、三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)歴

古田織部(古田重然)

生誕年:天文12年(1544年)
生誕地:美濃国(出生地は不詳、美濃山口城説もありますが、古田重勝との混同とも)
略歴・功績:古田重然(ふるたしげなり)が本名で、後に従五位下・織部助という官位に叙任され、古田織部と通称。
豊臣秀吉・徳川家康の茶堂、徳川秀忠の茶の湯指南役で、茶道織部流の祖。
千利休とともに茶の湯を大成するだけでなく、茶器を焼き、建築から作庭まで多岐にわたり「織部好み」と呼ばれる一大流行を築いています。
大名となったのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以降。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、豊臣方に内通した嫌疑で切腹。
死没年月日:慶長20年6月11日(1615年7月6日)
死没理由:大坂夏の陣で、豊臣方への内通の嫌疑から京都所司代板倉勝重に捕縛され、伏見屋敷(現在の京都市伏見区竹中町、宝酒造周辺)で切腹
墓所:大徳寺・三玄院(京都市)

大徳寺・三玄院

大徳寺・三玄院

京都府京都市北区、臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の塔頭(たっちゅう)が三玄院(さんげんいん)。大徳寺本坊の西にあり、天正17年(1589年)、石田三成、浅野幸長(あさのよしなが)、森忠政(もりただまさ/森蘭丸の弟)による創建。石田三成、森忠

小堀遠州(小堀政一)

生誕年:天正7年(1579年)
生誕地:近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市小堀町)
略歴・功績:父・小堀正次は豊臣秀長の家臣(大和郡山城主時に家老で、千利休に師事)で、小堀遠州も豊臣秀吉の直参となって、伏見城下で古田織部に茶の湯を学んでいます。
慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となり、その功績で、慶長14年(1609年)、従五位下・遠江守を叙任し、以降、小堀遠州と呼ばれるように。
備中松山城の再建、駿府城修築、名古屋城天守、将軍上洛の際の休泊所である水口御殿の建築などに携わり、多くの庭を作庭。
死没年月日:正保4年2月6日(1647年3月12日)
死没場所:伏見奉行屋敷(現・京都市伏見区讃岐町)
墓所:大徳寺・孤篷庵(京都市)、近江孤篷庵(滋賀県長浜市)

小堀遠州出生地

小堀遠州出生地

滋賀県長浜市小堀町にあるのが小堀遠州出生地の石碑(小堀新介屋敷跡碑)。三茶人に数えられる小堀遠州(小堀政一)は、作庭家、城の建築などでも名高い大名ですが、天正5年(1577年)、近江国坂田郡小堀村に生誕。小堀遠州と通称されるのは、慶長14年

大徳寺・孤篷庵

大徳寺・孤篷庵

京都府京都市北区紫野(むらさきの)、臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の塔頭(たっちゅう)が孤篷庵。大徳寺の西端に建つ庵で、庵号の「孤篷」は「一艘の苫舟」の意で、小堀遠州(小堀政一)の号。小堀遠州が江月宗玩(こうげつそうがん=津田宗及の子)を開

近江孤篷庵

近江孤篷庵

滋賀県長浜市にある臨済宗大徳寺派の寺で、小堀遠州(こぼりえんしゅう=小堀政一)の菩提寺が近江孤篷庵(おうみこほうあん)。小堀遠州の菩提を弔うために、小室城主で息子の小堀正之が大徳寺から僧・円恵を招いて開山した寺。遠州が大徳寺に建立した孤篷庵

掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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