京都府京都市上京区にある表千家流家元の茶室が千利休居士遺蹟・不審菴(せんのりきゅうこじいせきふしんあん)。千利休は、豊臣秀吉の逆鱗に触れ、天正19年2月28日(1591年4月21日)に聚楽第(じゅらくだい)の聚楽屋敷で切腹させられていますが、利休の娘お亀の夫・千少庵が千家復興を許され、不審菴を建てています。
千利休ゆかりの表千家は、ここに始まる!
千少庵(せんのしょうあん)も、千家の養子になっていたので、千利休切腹後、会津若松の蒲生氏郷(がもううじさと)のもとに蟄居(ちっきょ)を命じられていましたが(福島県会津若松市の鶴ヶ城公園内に千少庵の建てたと伝わる茶室麟閣が現存)、文禄3年(1594年)、徳川家康、蒲生氏郷の仲介で、ようやく秀吉の許しを得て、京に戻り、千家を興しています。
千少庵は、三男・千宗旦(せんのそうたん)を大徳寺から還俗(げんぞく=僧侶を俗人に戻すこと)させ、寛永10年頃(1633年)、千宗旦は不審菴を再建。
正保3年(1646年)、宗旦の子・千宗左(せんそうさ)が継いで、不審庵に住み、紀州徳川家に仕え、今に伝わる表千家が確立しています(表千家宗家は代々千宗左を名乗り、現在の当主は14代目です)。
千宗左は、父の宗旦から聞いて書き留めた利休の言葉などをまとめて、自筆の茶書『江岑夏書』(こうしんげがき)も著しています。
不審菴(ふしんあん)とは、千利休が大徳寺門前の屋敷につくった四畳半の茶室の名で、禅語「不審花開今日春」(ふしんにしてはなひらくこんにちのはる)に由来。
千利休が、大徳寺・大仙院の古渓宗陳(こけいそうちん)に庵号を求めた際、この禅語が返ってきたと伝えられています(千利休の茶室には古渓宗陳筆の「不審花開今日春」扁額が掲げられていました)。
なぜ春になって花が開くのか、自然は一切のはかりごとなく、無為自然に運行されているーという意味で、人智を超えた自然の偉大さと尊ぶ精神を表しています。
千利休居士遺蹟・不審菴 | |
名称 | 千利休居士遺蹟・不審菴/せんのりきゅうこじ・いせきふしんあん |
所在地 | 京都府京都市上京区本法寺前町597 |
関連HP | 表千家不審菴公式ホームページ |
電車・バスで | 地下鉄烏丸線鞍馬口駅から徒歩10分 |
問い合わせ | 表千家 TEL:075-432-2195 |
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