京都府京都市東山区、阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山頂にある豊臣秀吉の霊廟が豊国廟。豊臣秀吉を祀る豊国廟と豊国社は、徳川家康によって破壊されましたが、明治13年に修築が始まり、明治30年に阿弥陀ヶ峰の山頂に橿原神宮、平安神宮を手掛けた伊東忠太設計による五輪塔が立てられています。
豊国大明神の神号で祀られた豊臣秀吉の廟
豊臣秀吉は有名な醍醐寺での醍醐の花見(だいごのはなみ)の後に病に伏せるようになり、自身を八幡大菩薩(八幡神)として祀ること、遺体を焼かずに土葬することなどを遺言し、慶長3年8月18日(1598年9月18日)、伏見城で没しています。
阿弥陀ヶ峰の麓に神仏習合の八幡大菩薩堂が建設され、慶長4年4月13日(1599年6月5日)、伏見城から遺骸が運ばれ阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されています。
朝廷から遺言の八幡神ではなく(平安時代頃に八幡神は応神天皇と同一視されるようになり、皇祖神ということで避けたのかもしれません)、豊国大明神(とよくにだいみょうじん)の神号が与えられたことから、直後に八幡大菩薩堂から豊国神社(とよくにじんじゃ)に改称。
豊国大明神の宣命には「兵威を異域の水に振い恩沢を率土の間に施す(外国に武力を振るい恩恵を天下に施す)」とあり、朝鮮出兵を肯定的に捉える朝廷の姿勢を見ることができます。
豊臣家が滅亡した直後の元和元年8月18日(1615年10月10日)に、徳川家康は、後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号を剥奪し、国泰院俊山雲龍大居士(こくたいいんしゅんざんうんりゅうだいこじ)という仏教の戒名に与え、秀吉の霊を方広寺大仏殿裏手(現・豊国神社宝物館裏手の馬塚)の五輪塔に祀っています(江戸時代初期に記された『雍州府志』によれば、秀吉の遺骸は阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されたまま)。
慶応4年(1868年)、明治天皇の大阪行幸の際、「皇威を海外に宣べ、数百年経ってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」と、豊臣秀吉を尊王の功臣と賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下され、豊国神社が再建されたのです。
日清戦争直後という世相を反映し、明治30年、阿弥陀ヶ峰山頂に伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建立され(工事の際、素焼きの壺に入った遺骸が発見されています)、「兵威を異域の水に振い恩沢を率土の間に施す(外国に武力を振るい恩恵を天下に施す)」という豊国大明神の宣命が再度持ち出され、明治31年、『豊太閤三百年祭』が大々的に挙行されています。
京の街を一望できる戦略の要衝、阿弥陀ヶ峰の山頂の豊国廟へは、565段の石段を上ります。
阿弥陀ヶ峰は、天平年間(729年〜749年)、行基が阿弥陀如来を安置したと伝わる霊山で、東山三十六峰のひとつ。
阿弥陀ヶ峰の山麓は、平安時代以来、鳥辺野(とりべの)と呼ばれる葬送の地で、藤原道長が火葬された地。
京都の三大墳墓地(東の鳥辺野、西の化野、北の蓮台野)のひとつにも数えられています。
なお、豊国廟は豊国神社の境外社扱いで、「豊公登拝」の御朱印を豊国神社でもらうことができます(秀吉の月命日である毎月18日には、金色の桐紋が押された御朱印を授与)。
豊国廟 | |
名称 | 豊国廟/ほうこくびょう |
所在地 | 京都府東山区今熊野阿弥陀ケ峯町 |
関連HP | 京都市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | 京阪七条駅から徒歩30分 |
ドライブで | 名神高速道路京都東ICから約7km |
駐車場 | 80台/有料 |
問い合わせ | 豊国神社 TEL:075-561-3802/FAX:075-531-1643 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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