京都府長岡京市にある前方後円墳が、恵解山古墳(いげのやまこふん)。13基の古墳が国の史跡となっている乙訓古墳群(おとくにこふんぐん)のひとつで、恵解山古墳は、墳丘長128m(後円部径78.6m、前方部長49.4m)で、乙訓地域最大(京都盆地最大)の古墳で、5世紀前半の築造。
三大河川の合流点に築かれた巨大な前方後円墳
乙訓地域とは、長岡京市、向日市、大山崎町、京都市の一部にまたがるエリアで、古墳もヤマト王権の大王陵の動向と同じ時期に形成されています。
古墳時代前期(3世紀~4世紀)には向日丘陵(向日市)を中心に小さな地域を首長が治め、五塚原古墳(墳丘長91m/前方後円墳)、元稲荷古墳(墳丘長94m/前方後円墳)、寺戸大塚古墳(墳丘長98m/前方後円墳)などの古墳を築いていましたが、古墳時代中期(5世紀)になると、巨大な前方後円墳である恵解山古墳が平野部に誕生。
鉄刀176、鉄短剣141など鉄製の武器類が多量に出土したことからも、恵解山古墳の埋葬者は5世紀前半頃に桂川以西の乙訓地域全土を治めた有力な豪族だったと推測できます。
しかもその立地は、向日丘陵を離れた三大河川(桂川、宇治川、木津川)の合流点近く。
5世紀といえば、『宋書倭国伝』に記録された「倭の五王」(『宋書』に登場する倭国の5代の王、讃・珍・済・興・武)の遣宋使が貢物を持って参上した時代で、5世紀半ば、鉄製武具を有した豪族が、水運を掌握して君臨していたことがわかります。
古墳一帯は、調査、保存整備が行なわれ、平成26年に恵解山古墳公園として公開されています。
山崎の戦いで明智光秀の本陣は、恵解山古墳に置かれた!?
天正10年(1582年)、本能寺の変後、明智光秀が羽柴秀吉を迎え撃った山崎の戦いで、明智光秀が本陣を構えた地が恵解山古墳という可能性も議論されています(秀吉の本陣は宝積寺)。
『甫安太閤記』、『細川家記』、『新撰豊臣実録』に、御坊塚と記されるのが明智光秀の本陣ですが、当初は境野1号墳とされていましたが、恵解山古墳の史跡整備に伴う発掘調査で戦国時代の遺物や後円部の墓地から曲輪状の改変、墳丘上から戦国期の土器が出土、くびれ部付近から火縄銃の弾が6点出土したこと、江戸時代の絵図に、明智光秀の本陣が恵解山古墳付近に、境野1号墳付近は光秀家臣・津田与三郎の陣として描かれることから、恵解山古墳に本陣が置かれたという説が有力になっています。
恵解山古墳 | |
名称 | 恵解山古墳/いげのやまこふん |
所在地 | 京都府長岡京市勝竜寺30 |
関連HP | 長岡京市公式ホームページ |
電車・バスで | JR長岡京駅から徒歩20分 |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 長岡京市教育部文化財保存活用課 TEL:075-954-3557/FAX:075-954-8500 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag