京都府京都市伏見区にある江戸時代を通し、山城国唯一の大名家の居城(淀藩の藩庁)だったのが淀城。桂川と宇治川の舟運で都に運ばれる物資を陸揚げする川湊を控えた交通の要衝を守備する城で、譜代大名の居城でした。本丸石垣、穴蔵式天守台跡と堀の一部が現存しています。
江戸時代、京の都を守護したの淀藩の藩庁
浅井長政(あざいながまさ)と正室・市との間に生まれた浅井三姉妹(茶々、初、江)の一人、茶々(後の淀殿)は、天正16年(1588年)頃、秀吉の側室となり、棄(鶴松)を懐妊。
この懐妊を喜んだ秀吉から淀城を賜り、以降、「淀の方」(淀殿、淀君)と呼ばれるようになっています。
淀城の最初の築城は(『東院年中行事』が文献の初出)、畠山政長が応仁の乱に備えるため、守護所を勝竜寺城から淀城に移した文明10年(1478年)ですが、これは淀古城と呼ばれる中世の城で、京都市伏見区納所(のうそ)にありました。
近世の城郭としての淀城は、元和9年(1623年)、2代将軍・徳川秀忠(この年に隠居して大御所に)の命で松平定綱(まつだいらさだつな=徳川家康の甥)が淀藩を立藩した際に築城。
徳川将軍家は、廃藩となった伏見藩に代わって淀藩を立藩し、京を守備し西国諸藩を睨んだのです。
松平定綱は築城にあたり、元和5年(1619年)に廃城となった伏見城の資材を転用、その年、二条城大改修(秀忠の娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、藤堂高虎の縄張りで大改修)で不要となった天守を移築し築かれ(『淀古今真佐子』)、寛永2年(1625年)に完成。
完成翌年の寛永3年(1625年)には、大御所として二元政治を行なった徳川秀忠、3代将軍・徳川家光が、京の上洛(後水尾天皇が二条城への行幸)に合わせて、相次いで視察に訪れています。
徳川将軍がわざわざ来訪することからも、淀城の重要性がよくわかります(視察の際には伏見城から移築の殿舎を利用)。
天下普請ともいえる淀城築城を手助けしたとされるのが(『藤堂家記録』など)、築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)で、事実なら藤堂高虎、最晩年の普請ということに。
縄張りは、本丸とその北側の二の丸を堀で囲んで、東に三の丸、西に西の丸を配し、北には淀川が流れるという近世城郭で、元和6年(1620年)、2代将軍・徳川秀忠の命で近世城郭への改修が始まった大坂城の縄張りを参考にしています。
宝暦6年(1756年)、落雷により五重五階の望楼型天守や建物の大半が焼失し、その後、天守や本丸御殿は再建されていません。
幕末の鳥羽・伏見の戦いでは、敗走した旧幕府軍が、伏見城に籠城しようと試みますが、直前に旧幕府軍が朝廷によって朝敵とみなされたため、淀城の城代は敗走する旧幕府軍に城門を開くことがなく、旧幕府軍の敗北が決まっています(最後の藩主・稲葉正邦は、徳川幕府で老中を務めましたが、謹慎後、版籍奉還で藩知事に就任)。
廃藩置県で、淀藩は廃藩となり、淀城も破却、城の東にあった巨椋池(おぐらいけ)もその後干拓され(現在のJRA京都競馬場周辺)、城郭内に京阪電気鉄道が走り、風景は一変しています。
昭和43年に、本丸跡の石垣などを利用した淀城跡公園(1.7ha)が開園、今後、京阪本線の高架化と淀駅の移転に伴って面積を拡張し、実物大の櫓建物、内堀の一部を復元する計画が進んでいます。
淀城 | |
名称 | 淀城/よどじょう |
所在地 | 京都府京都市伏見区淀本町167 |
関連HP | 京都観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | 京阪電気鉄道淀駅から徒歩5分 |
ドライブで | 名神高速道路大山崎ICから約3km |
駐車場 | なし/周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 京都総合観光案内所 TEL:075-343-0548 |
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