伏見城(伏見桃山城運動公園)

伏見城(伏見桃山城運動公園)

京都市伏見区桃山町、大坂と用を結ぶ水運の要衝の地・伏見に豊臣秀吉が隠居所として築いた豪壮な城が伏見城。現在は2代目の伏見城(木幡山伏見城)城跡一帯が伏見桃山城運動公園として整備されています。模擬天守も建っていますが、本丸跡などの主郭部分は明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)となっており立入禁止。

豊臣秀吉は、伏見城で没している!

朝鮮出兵(文禄の役)開始後の文禄元年(1592年)、秀吉の隠居の城として伏見、指月山に創建されたのが伏見城。
当初の伏見城は、伏見指月(現・京都市伏見区桃山町泰長老一帯)にあったため、指月城(指月伏見城)と呼び分けています。
その指月城(指月伏見城)は、文禄5年7月13日(1596年9月5日)、慶長伏見地震によって倒壊したため、指月山から北東の約1kmの木幡山に新たな城が築かれ、慶長2年(1597年)に完成。
これが現在、伏見城といわれる城跡で、JR伏見駅の北東側に城郭があり、駅前から宇治川の間に屋敷跡の町割りが残されています。

豊臣秀吉は、この木幡山にあった伏見城の城内で完成の翌年、慶長3年8月18日(1598年9月18日)に没しています。
秀吉の死後、遺言により秀頼は大坂城へと移り、伏見城へは五大老筆頭の徳川家康が入城。
慶長8年2月12日(1603年3月24日) 、家康が征夷大将軍の宣下を受けたのもこの伏見城で、豊臣秀頼が大坂城に陣取っている間は、この伏見城に滞在し、拠点にしていました。

その後、天下分け目の関ヶ原の戦いでは家康の家臣・鳥居元忠らが立て籠もり壮絶な最期を遂げています。
この時の建材が京の養源院、正伝寺などに再利用され血染めの天井板といわれているのです。
建物の大半が石田三成軍の攻勢で焼失したため、徳川家康によって慶長7年(1602年)頃に再建されていますが、元和の一国一城令後の元和5年(1619年)に廃城となっています。

廃城となった伏見城の建物は、その一部が西国守備の要である福山城(広島県福山市)、多くの寺社などに移築され、福山城では伏見城・松の丸東櫓から移築した櫓が伏見櫓(昭和29年の解体修理の際に2階の梁から「松ノ丸ノ東やくら」と記された墨書を発見)として現存しています。
京都・豊国神社(とよくにじんじゃ)の大唐門(だいとうもん/国宝)も伏見城から二条城、さらに南禅寺・金地院をへて豊国神社に移築された城門です。
滋賀県長浜市の大通寺(長浜御坊)の本堂(阿弥陀堂)と書院造りの大広間(附玄関)は、伏見城の建物を徳川家康から東本願寺第12代教如へと寄進されたもので、本願寺(東本願寺)の御影堂として用いたものを、承応年間(1652年〜1654年)に大通寺(長浜御坊)に移建したもの。
書院造りの大広間は、伏見城時代には、公式の対面所(謁見の間)として使用していたと推測されています。

江戸城の伏見櫓も寛永5年(1628年)、3代将軍・徳川家光の時代の江戸城修築に際して、伏見城から移築したものと伝えられていますが、記録がなく伝承の域を出ません。

昭和39年築の模擬天守は立入禁止に

伏見城城郭の一角に昭和39年に近鉄グループの遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、そのシンボルとして現存する模擬天守を建設(林原美術館所蔵の『洛中洛外図屏風』を参考に外観設計)。

平成15年に「伏見桃山城キャッスルランド」は閉園となり、跡地が平成19年4月から伏見桃山城運動公園となっています。
当初、解体予定だった模擬天守は、地元の要望もあり、そのまま残されることになり、模擬天守周辺は映画やドラマの撮影に使われていますが、耐震性に問題があるため天守内部の入場は不可。
立派な入城門(正門)も伏見桃山城キャッスルランド時代のものです。
野球場、多目的グラウンドの利用は有料、城・庭園ゾーンは入場が自由で、散策や記念撮影に絶好。

実際に伏見城天守があった本丸は、伏見桃山陵(明治天皇陵)からその北側一帯。
その西に二の丸、三の丸が配され、JR桃山駅の北側が大手口にあたります。
模擬天守が建つのは、徳川家康が伏見城を再建する際に放棄した御花畑曲輪で、本来の場所からは西北西にズレています。

江戸時代には、南には巨椋池(おぐらいけ/江戸時代には大池)が広がり、宇治川の舟運などにも利用されていましたが、昭和8年〜昭和16年の国営干拓事業で姿を消しています。

伏見城(伏見桃山城運動公園)
名称 伏見城(伏見桃山城運動公園)/ふじみじょう(ふしみももやまじょううんどうこうえん)
所在地 京都府京都市伏見区桃山町大蔵
関連HP 京都市スポーツ協会公式ホームページ
電車・バスで JR桃山駅から徒歩18分
ドライブで 名神高速道路京都南ICから約4km
駐車場 250台/有料
問い合わせ 伏見桃山城運動公園 TEL:075-602-0605
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
有名武将の終焉の地&墓所

大河ドラマの主人公、有名武将の終焉の地&墓所

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑を筆頭に、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、明智光秀、前田利家、山内一豊、徳川秀忠、源頼朝というNHK大河ドラマの主人公となった11人の有名武将、そしてその候補となる2人(石田三成、加藤清正)の合計13人の終

福山城・伏見櫓

福山城・伏見櫓

福山城本丸に現存する三層三階の隅櫓。元和8年(1622年)、水野勝成による福山城築城に際して、2代将軍・徳川秀忠の命により伏見城・松の丸東櫓から移築した櫓のため、伏見櫓の名があります。今も往時と変わらぬ姿を留めています。城郭建築史上、初期の

大通寺(長浜御坊)

大通寺(長浜御坊)

滋賀県長浜市にある大通寺は真宗大谷派(東本願寺)の別院で、正式名は無礙智山(むげちざん)大通寺。長浜市民には、長浜御坊、「御坊(ごぼう)さん」と親しまれてきた寺です。本堂(阿弥陀堂)は伏見城の遺構と伝えられ、国の重要文化財。本堂では丸山応挙

三英傑

三英傑とは!?

戦国時代、天下統一へと導いた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、ともに愛知県出身で、名古屋ゆかりということで、地元・名古屋を中心に三英傑(さんえいけつ)と呼ばれています。そのうち、信長、秀吉は尾張国(愛知県西部)、家康は岡崎で三河国(愛知県東部

淀城

淀城

京都府京都市伏見区にある江戸時代を通し、山城国唯一の大名家の居城(淀藩の藩庁)だったのが淀城。桂川と宇治川の舟運で都に運ばれる物資を陸揚げする川湊を控えた交通の要衝を守備する城で、譜代大名の居城でした。本丸石垣、穴蔵式天守台跡と堀の一部が現

徳川家康ゆかりの城

徳川家康ゆかりの城 11城

岡崎城(愛知県岡崎市)に生まれ、幼少期には人質生活を送り、戦乱の世を生き抜き、ついに江戸に徳川幕府を開いた徳川家康。大河ドラマ『どうする家康』のタイトルどおり、波乱万丈、危機一髪が連続する人生ですが、ゆかりの城、転機となった城11城を、年代

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

ABOUTこの記事をかいた人。

アバター画像

日本全国を駆け巡るプレスマンユニオン編集部。I did it,and you can tooを合い言葉に、皆さんの代表として取材。ユーザー代表の気持ちと、記者目線での取材成果を、記事中にたっぷりと活かしています。取材先でプレスマンユニオン取材班を見かけたら、ぜひ声をかけてください!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ