京都府京都市右京区太秦(うずまさ)にある国の史跡に指定される古墳が蛇塚古墳(へびづかこふん)。もともとは前方後円墳でしたが、古墳を覆う土がなくなり、横穴式石室だけが残され、市街地のなかに奇異な景観を生んでいます。石室内に蛇が棲息していたことが名の由来。
京都の石舞台ともいえる古墳は、秦氏の墓と推測
墳丘長は75mで、大正時代までは墳丘の一部が残存していたと伝えられています。
後円部の横穴式石室は全長17.8m、玄室長6.8m、玄室幅3.9mで、一辺3mを超える巨石を2段程度積み上げて構築されています。
時の権力者・蘇我馬子の墓ともいわれる石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)にも匹敵する規模ですが、石室内にあったという家形石棺も失われ、現存していません。
石室内の見学は、京都市文化財保護課事前の申込みが必要。
古墳時代後期の6世紀末〜7世紀初頭頃の築造で、嵯峨野では同じ前方後円墳の天塚古墳(あまづかこふん/墳丘長73m/6世紀前半)、垂箕山古墳(たるみやまこふん/墳丘長63m/6世紀初頭〜中頃)とともに国の史跡になっています。
これらの古墳群は、桂川中流域、鴨川下流域を支配し、嵯峨野一帯を開拓した渡来系の秦氏(はたうじ)の墓と推測され、秦忌寸都理(はたのいみきとり)創建の松尾大社、秦伊侶具(はたのいろぐ)の創建伝承のある伏見稲荷大社は、その氏神で、太秦にある広隆寺は秦河勝(はたのかわかつ)が創建した氏寺です。
蛇塚古墳については、聖徳太子の側近として活躍した秦河勝を被葬者と推測する人もいますが、定かでありません。
太秦(うずまさ)一帯は機織りや高度な土木技術をもつ渡来系氏族の秦氏の拠点で、後の平安京造営に際しても、その一翼を担うほどの勢力を誇っていました。
蛇塚古墳 | |
名称 | 蛇塚古墳/へびづかこふん |
所在地 | 京都府京都市右京区太秦面影町 |
関連HP | 京都市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | 嵐電帷子ノ辻駅から徒歩10分 |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 京都市文化財保護課 TEL:075-366-1498 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag