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西福寺(子育地蔵)

西福寺(子育地蔵)

京都市東山区轆轤町、六道の辻にある浄土宗の寺が、西福寺(さいふくじ)。貞観年間(859年 – 876年)に、空海が自作の土仏地蔵尊を、六道の辻の地蔵堂に祀ったのが始まりと伝える古刹で、境内にある子育地蔵が有名です。山門向かいの店では名物の「幽霊子育飴」を販売。

現世と冥界の境、六道の辻に建つ地蔵信仰の寺

京の三大葬地(東の鳥辺野、西の化野、北の蓮台野)のひとつ、鳥辺野(とりべの)の入口に位置する六道の辻。
藤原道長が荼毘(だび)になったのも鳥辺野で、当時の火葬場だった地。
その入口に位置するため、現世と冥界の境と考えられたことから、六道珍皇寺、六波羅蜜寺、西福寺などが建立されたのです。
かつては6つの仏堂がありましたが、現存するのはこの3寺で、8月の旧盆(8月7日〜10日)には精霊(御魂・みたま)を迎えるための『精霊迎え 六道詣り』が今も行なわれています。
往時には六道詣りにあわせて、寺の保有する「熊野観心十界図」を住職が解説する『地獄絵絵解き』も行なわれていました。

寺に伝わる子育地蔵は、弘仁5年(814年)、嵯峨天皇の第二皇子・正良親王(まさらしんのう)が病に伏せた際(4歳)、壇林皇后が西福寺の地蔵尊に病気平癒の祈願をしたところ病気が見事に平癒し、天長10年(833年)、叔父の淳和天皇の譲位を受け54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)になったことから、その霊験が一躍有名に。

毛利氏に仕える外交僧で、豊臣政権を支えた臨済宗の僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が、関ヶ原の合戦で西軍の中枢となったことから、六条河原で斬首、慶長8年(1603年)、毛利家家臣・井上安芸守が菩提を弔って地蔵堂を寺(桂光山敬信院)にしています。
享保12年(1727年)、関白・二条綱平が父の九条兼晴の菩提を弔うために再興し、現在の寺名・西福寺に。

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寺宝『檀林皇后九相図』

寺宝に亡くなった壇林皇后の遺体が風化していく様を9つの段階(新死相、膨張の相、血塗の相、蓬乱の相、たん食の相、青おの相、白骨連相、骨散の相、古墳の相)に分けて描いた『壇林皇后九想図』があり、『精霊迎え 六道詣り』の期間のみ特別公開されています。

その美貌で知られ、仏教に帰依した壇林皇后ですが、「風葬となし、その骸の変相を絵にせよ」と遺言にし、帷子ノ辻で風葬にされ、この九想図が描かれたもの。

仏僧たちの色欲を絶つために描かれたもので、結びの部分では、仏法に心を寄せ、未来永劫、世の迷いの夢(色欲)を見ないように信心深くありなさいという教えが説かれています。
人は皆、死んだら骨になるので、煩悩は捨てよという教えです。

西福寺(子育地蔵)
名称 西福寺(子育地蔵)/さいふくじ(こそだでじぞう)
所在地 京都府京都市東山区轆轤町
電車・バスで 京阪電鉄祇園四条駅から徒歩13分
ドライブで 名神高速道路京都南ICから約11km。または、阪神高速8号京都線鴨川東出口から約6km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

六波羅蜜寺

応和3年(963年)に空也上人(醍醐天皇第二皇子)が開いた真言宗智山派の古刹が六波羅蜜寺で、西国三十三所第17番札所。平安後期には平忠盛が塔頭寺院に滞在したことから、平清盛、重盛は広大な寺域に京滞在の館を築いています。重要文化財の質、量にお

六道珍皇寺

承和年間(834年~848年)、山代淡海(やましろのおおえ)が国家鎮護のために創建したと伝わる古刹が六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)。六道とは、仏家のいう地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6種の冥界をさし、平安時代に東山山麓にあった鳥辺野

 

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