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天塚古墳

天塚古墳

京都府京都市右京区太秦松本町にある墳丘長73mの前方後円墳が、天塚古墳(あまづかこふん)。嵯峨野台地の南縁に築造された6世紀前半の古墳で、国の史跡に指定されています。埋葬施設として、後円部に横穴式石室2基が発見され、渡来系氏族の秦氏(はたし)一族の墓とも推測されています。

太秦古墳群を構成する貴重な古墳

古代に嵯峨野(さがの)一帯を開発した渡来系氏族・秦氏ですが、「はた」は古代朝鮮語で海の意で、5世紀中頃に新羅から渡来した氏族集団と推測されています。
高度な技術力と豊富な経済力を有し、桂川の渡月橋あたりに灌漑用の大堰である葛野大堰(かどのおおい)を造成し嵯峨野一帯を開墾、養蚕や機織などの新しい技法を伝えています。
太秦の名も秦氏の開拓に由来すると推測され、平安京造宮長官・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の母が秦氏の娘だったことから、長岡京の遷都、造営にも尽力したことが推測できます。

埋葬施設は、いずれもトンネル状の横穴式石室で、後円部、後円部と前方部の境となるくびれ部に備わっています。
明治20年に最初の調査が行なわれ、石室の内部から、銅鏡、鉄剣、馬具、玉類、須恵器、鍍金(ときん)を施した玉などの副葬品が出土しています。

右京区太秦蜂岡町の広隆寺も秦氏ゆかりの寺とされるほか、広隆寺創建に伴い勧請されたとも伝わる木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ/本殿の東隣に蚕養神社が鎮座)、嵯峨野の首長墓群の中では最大規模の古墳である蛇塚古墳(墳丘長約75m、国の史跡/天塚古墳の西1km)、そして垂箕山古墳(墳丘長約63m、仲野親王墓)など秦氏一族の墓と推測される古墳が残されています。

7世紀に築造されたと推測される蛇塚古墳の墳丘はすでに失われ、石室が露出した状態ですが、蛇塚古墳が一辺3mを超える巨石を2段に積み上げて、明日香の石舞台古墳に匹敵する石室を構築しているのに対し、天塚古墳では幅1m前後の石材を数段積み上げて構築されているのは、時代の違いです(古墳時代末期に巨石化)。

これらの古墳は、秦氏の墓とする説が有力ですが、渡来系氏族である秦氏の本拠地としては、大陸由来の要素を持つ遺物が少ないという指摘もあり、今も埋葬者は謎めいているのです。
太秦古墳群を構成する貴重な古墳で、この地域の首長の系譜をもつ有力者の墓で、この地に繁栄したとされる秦氏の消長を考える上でも、重要な遺跡となっています。

周囲は市街化され、古墳までの到達が少しわかりづらく厄介なのが難点です。

くびれ部の開口石室
天塚古墳
名称 天塚古墳/あまづかこふん
所在地 京都府京都市右京区太秦松本町18
電車・バスで 京福電気鉄道嵐山本線蚕ノ社駅から10分
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

蛇塚古墳

京都府京都市右京区太秦(うずまさ)にある国の史跡に指定される古墳が蛇塚古墳(へびづかこふん)。もともとは前方後円墳でしたが、古墳を覆う土がなくなり、横穴式石室だけが残され、市街地のなかに奇異な景観を生んでいます。石室内に蛇が棲息していたこと

木島神社(木嶋坐天照御魂神社)

京都府京都市右京区太秦にある古社が木島神社(木嶋神社/このしまじんじゃ)。正式名は木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)。平安時代編纂の『延喜式神名帳』に記載の式内社で、広隆寺の真東に位置建ち、秦氏の広隆寺創建に伴って勧

 

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