島田市は静岡県中部に位置し、市の中央を大井川が流れています。
江戸時代には東海道五十三次の日本橋から数えて第23番目の宿場・島田宿(嶋田宿)、大井川の川越の宿場として栄えました。
島田市のマンホールの絵柄には「大井川の輦台(れんだい/蓮台・連台)越」の様子や『帯まつり』が描かれています。
越すに越されぬ大井川
江戸時代、大井川は「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と詠われた東海道の難所のひとつ。
江戸幕府の防衛や徳川家康の隠居城となる駿河城の「外堀」的な役目を果たすため、大井川の架橋、通船が禁じられていました。
つまり、東海道の石畳が歩きづらいのと同様に、交通のネックを意図していたわけです。
そのため参勤交代の大名も、庶民も、大井川を渡るには馬や人足を利用して輦台(れんだい=輿・こし)や人夫の肩車で川を渡っていました。
この川越制度は川越賃銭で宿場が潤うだけでなく、大井川が雨で増水すれば「川止め」となり、水が引くのを待つ間、宿場は繁栄。
大井川両岸の島田宿と金谷宿は、さながら「江戸のような賑わい」を見せたということです。
今では上流にダムが造られて往時の面影はありません。
万治1年(1685年)刊行の『東海道名所記』には、「あの世、此の世のさかひを見るほどの大河なり」というすごい表現もあります。
しかも川止めの最長記録は明治元年の28日。なんと1ヶ月近くも渡河できない状況が続いたのです。
旅人は滞在費がかさみ、やがては所持金が底をつき、そのまま住み着く人も大勢いたのだとか。
江戸時代の東海道はこの大井川の川止めによって「旅程の日数計算がままらない」状態で、薩摩など遠方の大名も、滞在費が大いにかさんで臨時の出費が大変だったことでしょう。
幕末の皇女・和宮の降嫁も、この旅程が計算できない点を考慮して京から中山道を使って江戸城へ輿入れしています。
江戸時代に誕生した川会所のシステム
幕府は元禄9年(1696年)、大井川両岸の島田宿と金谷宿に川会所と呼ばれる役所を作り、組織的な渡河業務を行なうようにしています。
川を渡るには川会所で川札(割り符)を買い、これを川越人足に渡し、人足の肩や輦台(れんだい)に乗る。人足はその札を川会所に持って行けば賃銭がもらえるというシステムだったのです。
大井川の島田側河畔に「島田宿大井川川越遺跡」が再現されているので、ぜひ見学していきましょう。
川会所の周辺には人足が待機した番宿などが復元され、往時の家並みが再現されています。一部は民家として使用されているので、見学にあたってはご注意を。
明治3年に新政府により大井川の渡船架橋が許可され、そんな大井川に初めて橋が架けられたのは明治11年のこと。
有料橋の蓬莱橋(ほうらいばし)で通行料は片道5厘です。現在の橋は架け替えられたものですが橋脚こそコンクリートパイルですが、梁の上に3本の台持木を置き、桁木、均し木をのせて板を敷きボルトで止めるというシンプルな構造。ガタガタする板もあって「男の人でも怖じ気づいて渡れない人がいる」とか。
長さ 897m、幅 2.7mは木造橋としては日本一の長さ!
「木造歩道橋として世界一の長さ」としてギネスブックにも載っています。
日本三奇祭『帯まつり』
島田市のマンホールの絵柄には、『帯まつり』が描かれたものもあります。
大井川鎮護や安産の神として信仰を集める大井神社の例祭、島田大祭が『帯まつり』です。
『帯まつり』と呼ばれる由来は、島田宿に嫁いできた女性が安産を祈願して大井神社にお参りしたあと、嫁入りの挨拶で宿場内に丸帯を披露していたものが、いつしかお嫁さんの代わりに大奴が金爛緞子(きんらんどんす)の丸帯を太刀に掛けて練り歩くようになったということです。
はじまりは元禄8年(1695年)と伝えられて、3年に1度、寅年(とらどし)・巳年(みどし)・申年(さるどし)・亥年(いどし)の10月に行われます。
今年(平成28年)は第108回となる斉行の年で、10月8日(土)〜10月10日(月・祝)の3日間(10月7日(金)の『衣裳揃え』をいれると4日間)開催されます。
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