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旧崇広堂

旧崇広堂

三重県伊賀市、「赤門」の愛称で親しまれる江戸時代の藩校の遺構が旧崇広堂(きゅうすうこうどう)。伊賀上野に住む藩士子弟を教育する目的で、津藩10代藩主・藤堂高兌(とうどうたかさわ)が江戸時代後期の文政4年(1821年)に藩校有造館の分校として建てたもの。国の史跡。

近畿東海地方に残る唯一の藩校

旧崇広堂は、上野城の西土居側(西外堀に沿う地域)に位置し、南側には上級武士の役宅が並ぶ大名小路が東西に走っています。
つまりは藩士の子弟が通いやすい一等地というわけなのです。

藤堂高兌は、藩財政の窮乏を背景に、質素倹約を自ら率先し、灌漑用水の整備や産業の育成などとともに手掛けたのが藩校・有造館の創設。
伊賀、大和、山城の領地に住む藩士の子弟はもちろんのこと、領民にも教育を奨励し、教育制度確立、藩政の安定化などに成功しています(名君といわれながら、44歳で没)。

旧崇広堂の建物は、創建当時の「赤門」と呼ばれる朱塗りの長屋門を持つ7間4面の入母屋造りの堂々としたもの。
明治維新後は、私立上野義学校、村立上野学校、町立丸之内尋常小学校として活用され、明治38年からは、阿山郡立図書館、市制実施後は、市立図書館として昭和58年まで現役で使われていました。

江戸時代には藩士子弟の教育機関として全国各地に300校あまりも存在した藩校は、明治維新の廃藩置県の際にその多くが取り壊され、現在では全国でも10校ほどしか残っていない貴重な存在。
72枚もの畳が敷き詰められた「講堂」(広間型講堂)には、当時の子弟が勉学に励んだ凛とした空気が漂っています。
講堂に掲げられた扁額は上杉鷹山(うえすぎようざん=上杉治憲)晩年の筆。
藤堂高兌は財政再建の師として上杉鷹山を仰いだことは容易に想像でき、上杉鷹山に扁額の書を頼んだもの(『崇広堂記』)。
崇広堂開校の翌年、上杉鷹山はこの世を去っています。

72畳敷の大講堂
旧崇広堂
名称 旧崇広堂/きゅうすうこうどう
所在地 三重県伊賀市上野丸之内78-1
関連HP 伊賀上野観光協会公式ホームページ
電車・バスで 近鉄上野市駅から徒歩10分
ドライブで 名阪国道上野東ICから約2km
駐車場 上野公園駐車場(60台/有料)
問い合わせ 旧崇広堂 TEL:0595-24-6090
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

伊賀上野城

1581(天正9)年に伊勢に侵攻した織田信雄(おだのぶかつ=信長の次男)の家臣・滝川雄利が平清盛が建立と伝わる平楽寺跡に城郭を築いたのが伊賀上野城の創始。1608(慶長13)年、伊賀・伊勢両藩の藩主となった藤堂高虎は津城には手を加えなかった

 

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