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細島みなと資料館

細島みなと資料館

宮崎県日向市細島、大正時代に建てられた九州では数少ない木造3階建ての「高鍋屋旅館」(代々三輪家が経営)を再生したミュージアムが細島みなと資料館。細島港は、幅(南北)200m~300m、奥行き(東西) 3km の懐深い入江を利用した天然の良港。日明貿易。上方との交易でも賑わった港です。

 大正時代築の高鍋屋旅館を再生

細島港沖の日向灘は、「一に玄海、二で遠江(とうとうみ)、三で日向の赤江灘」と宮崎民謡『じょうさ節』に唄われる海の難所。
その避難港として重視されたのが細島で、治承元年(1177年)の「鹿ヶ谷事件」で僧・俊寛(しゅんかん)は鬼界ヶ島に流される途中、細島湊でいったん上陸し、陸路伝いに薩摩へ入り、再び船に乗って喜界島を目指ししています。
つまり、細島以南の日向灘はそれほどの海の難所ということに。
平安末期の壇ノ浦の戦いで、入水したはずの幼帝・安徳天皇も、密かに脱出し奄美へと落ち延びたという伝承がありますが、やはり、細島でいったん上陸し、薩摩から再度、船出するというストーリーになっています(中世に、細島〜薩摩は陸路をとったことが普遍化していたことがわかります)。

応永元年(1401年)に始まった日明貿易でも、薩摩・坊津〜細島〜土佐・浦戸〜摂津〜堺という航路の中継基地になっています。

江戸時代の元禄3年(1690年)、幕府の直轄領(天領)となり、薩摩、飫肥、高鍋、佐土原の九州諸藩は、各藩の御用商人が屋敷を構え、参勤交代に細島を利用しています(御用商人は薩摩屋、飫肥屋、高鍋屋と、藩名を屋号とし、離れに本陣座敷を構えました)。

明治10年の西南戦争では、一時期、官軍の本営が置かれ、補給基地としても活用され、西南戦争の特需で富を築く商人も現れました。

明治13年には大阪商船の定期船が就航、物流の拠点として重要性も認識され、明治20年には内務省がオランダ人技師ヨハネス・デレーケ設計で、港湾整備(堤と排水溝)が行なわれています。

細島みなと資料館として再生される「高鍋屋旅館」も大正時代末頃には大いに賑わい、現存する『宿帳』には、北海道、東京、大阪、兵庫、福岡、佐賀からの旅人、外国人としてはトルコ人の名も記されています。
屋号が示すとおり、高鍋藩とのかかわりが深く、敷地内には高鍋藩仮小屋跡があります。
昭和12年には、日豊線の枝線「細島臨海鉄道」が開通していることからも、いかに繁栄していたかがよくわかります。

現在、旧細島街道に沿って広がる商人町、東端の丘陵上に位置する漁師町があり、細島を代表する老舗「摂津屋」は、西南戦争時に本営となって有栖川宮熾仁親王が滞在した場所です。
米ノ山の中腹に現存する石造の常夜灯は、明治11年、細島の女性たち(「当町女人連中」と刻まれる)が建てたもので、日没と同時に明かりが点され、男たちの帰帆を見守った灯台です。
屈指の豪商として知られる苫屋の町家は、「関本勘兵衛家住宅」として一般公開されています。

細島みなと資料館
名称 細島みなと資料館/ほそしまみなとしりょうかん
所在地 宮崎県日向市細島803-1
関連HP 日向市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR日向市駅からタクシーで15分
ドライブで 東九州自動車道日向ICから約6km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 細島みなと資料館 TEL:0982-55-0329
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

西南の役細島官軍墓地

宮崎県日向市日知屋、細島の港を見渡せる小高い丘にある、明治10年の西南戦争に従軍した、迫田鉄五郎少佐以下319名の官軍兵士の墓地が西南の役細島官軍墓地。宮崎県内各地で戦死、病死した官軍兵士で、墓碑銘や当時の記録から、関東・中部・東北地方の出

細島みなと資料館

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関本勘兵衛住宅

宮崎県日向市細島、明治20年に内務省がオランダ人技師ヨハネス・デレーケ設計で港湾整備を行なった細島港にある商家が関本勘兵衛家住宅。苫屋の屋号を持つ関本家は江戸時代から続く商家で、現存する建物は明治12年の築。主屋1棟、付属屋2棟、土蔵1棟が

 

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