新潟県新潟市西蒲区角田浜、角田岬灯台近くにある断崖絶壁に囲まれた小さな入江が、判官舟かくし。文治3年(1187年)、源義経が、兄・源頼朝に追われて奥州・平泉に逃れる際、追手を避けて舟とともに身をかくした洞穴と伝えられています。日本海側各地に残る義経伝説の地のひとつ。
大小ふたつの海食洞が、判官舟かくし
判官舟かくしには、大小ふたつの海食洞があり、右側が奥行28m、幅4~5m、天井の高さは海面から2.5~6.6m。左側は奥行14m、幅2mで、天井の高さは海面から4m~5mと、舟を隠すには十分のスペースがあります。
角田浜海水浴場の駐車場に車を入れ、遊歩道で探勝しますが、高波時、高潮時などには波にさらわれる危険も。
素掘りのトンネル、断崖に築かれたワイルドな道が続き、とくにファミリーは転落にも注意が必要。
日本海側には、義経伝説を残す地が点在していますが、新潟県内でも笹川流れなどにその伝説が。
もちろん、平泉までのルートは定かでありませんが、当時の物流の大動脈は日本海側だったことを考えれば、伊勢、美濃から日本海に出たというのが有力です。
義経は、いつ、どのルートで奥州に逃れた!?
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、文治2年11月29日(1187年1月10日)、「畿内・北陸道に義經捜索の宣旨下し」とあるので、逃走経路として北陸道を疑っていたことがわかります。
さらに文治3年2月10日(1187年3月21日)に「つひに伊勢・美濃等の国を経て、奥州に赴く」とあるので、この間に奥州・平泉に逃げ延びたことがわかります。
ところが、文治3年4月4日(1187年5月13日)には、再び義經発見を、鶴岡八幡宮など諸寺社に祈願するように申し付けているので、鎌倉幕府は義経の所在を把握していなかったことがわかります。
厳冬の日本海を進めるのかという疑問も残るので、文治3年、温かくなってから奥州を目指したのかもしれません。
歌舞伎『勧進帳』などは、南北朝時代から室町時代初期に成立した『義経記』(ぎけいき)がルーツで(能の演目『安宅』を元に創られた歌舞伎の演目ですが、『安宅』が『義経記』を元にしています)、「如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事」、「直江の津にて笈探されし事」と、後世の義経伝説に大きな影響を与えています。
しかし、史実とはいい難い部分も多く(実は弁慶の役割、同行すら疑問視されています)、日本海側の伝説も「義経が舟を隠せそうな洞窟」が「義経が舟を隠した洞窟」に変化したものだと推測できます。
『勧進帳』など源義経の奥州逃避行の話が大衆化したのは、江戸時代中期移行、歌舞伎の十八番になってからなのです。
判官舟かくし | |
名称 | 判官舟かくし/はんがんふなかくし |
所在地 | 新潟県新潟市西蒲区角田浜 |
ドライブで | 北陸自動車道巻潟東ICから約17.7km |
駐車場 | 角田浜駐車場(3000台/無料) |
問い合わせ | 新潟市西蒲区産業観光課 TEL:0256-72-8454/FAX:0256-72-6022 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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