平戸オランダ商館は、慶長14年(1609年)に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社(VOC)が、平戸城主・松浦隆信(まつらたかのぶ)の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点。現存する遺構はオランダ塀、オランダ井戸、埠頭、石垣のみですが、「1639年建造倉庫」が復元され1640年10月当時の商館が甦っています。
東インド会社が江戸時代初期に造った東アジア貿易の拠点
平戸にポルトガル船が初来航したのは、戦国大名・松浦隆信の治世、天文19年(1550年)。
ポルトガルとの間にはキリスト教の布教に対する軋轢もあって船長以下14名の死者をだす事件(宮ノ前事件)が発生し、15年ほどで貿易関係が途絶えています。
オランダの東インド会社が平戸に初入港は、慶長14年(1609年)。
駿府の徳川家康との面談を果たした上で平戸にオランダ商館を開設したのです。
ただし、平戸には大手の貿易商などが不在で(長崎に在住)、オランダ人には評判が良くありませんでした。
島原の乱の勃発などにより、鎖国政策が強化され、寛永18年(1641年)にオランダ商館が長崎出島へ移転するまでの33年間、日蘭貿易が平戸で行なわれたのです。
国の史跡となった商館跡は、昭和62年から商館、倉庫などの発掘調査が行なわれ、常灯の鼻近くの倉庫跡などが特定されています。
平戸のオランダ商館は、当初は土蔵の付属した住宅1軒を借りて簡易的に始まり、その後、貿易が拡大するに従って、海側を埋め立て、石積みの護岸を建設。
埋め立ても数度に渡り、徐々に拡張されています。
最後の建物が最も立派で、寛永16年(1639年)建造のもの。
オランダの最新技術を使った石造建築と護岸
「1639年建造倉庫」が「平戸オランダ商館」として復元され1640年10月当時の商館が甦っています。
館内には『1612年平戸図』などの古地図、航海用具、商館の日用品などを展示。
海外交流前史、オランダの大航海時代、平戸オランダ船到来、和蘭商館の全盛期と落日などの展示は、当時の日本の状況が世界史の流れの中でよくわかり、社会科の勉強にも絶好。
復元・和蘭商館コーナーでは、平戸オランダ商館長の執務室を再現しています。
往時の平戸和蘭商館は、2万1000個の砂岩切石を積み上げた日本最初の洋風石造建築。
復元された商館も同様に2万1000個の石が使われています。
また破風に1639という年号がデザインされています。
商館長フランシス・カロンはヨーロッパの習慣に倣い、倉庫の破風に“Anno Christi 1639”(キリスト生誕から1640年)と記したのです。
寛永17年(1640年)11月9日、このキリストの生誕にちなむ西暦年号が付いていることを理由に、幕府は将軍徳川家光の命を受けた大目付・井上政重が商館の破却を命じています。
その背景には寛永15年(1638年)2月28日に終結した島原の乱がありました。
キリスト教布教に対する危機感から幕府は鎖国政策を強化し、平戸のオランダ商館も西暦年号を理由に徹底的な破却が行なわれ、寛永18年(1641年)に長崎出島に移されています。
こうして鎖国政策が完成したのです。
オランダ東インド会社に就職し、料理人として開設間もない1619年に平戸のオランダ商館に着任。
1636年2月には館長代理となり、『日本大王国志』を執筆。
長崎奉行榊原職直に対して、日蘭が同盟してマカオ、マニラ、基隆を攻撃することを提案し、長崎代官の末次茂貞(末次平蔵の息子)から、フィリピン攻撃の協力を依頼されますが、島原の乱の勃発で攻撃自体が中止されています。
1639年2月12日に平戸オランダ商館長に就任。
西暦年号が記されたことを理由に、建設1年あまりの商館の破却を命じられたのも、商館長時代のフランソワ・カロンです。
平戸時代に、7回江戸に参府しています。
平戸オランダ商館 | |
名称 | 平戸オランダ商館/ひらどおらんだしょうかん |
所在地 | 長崎県平戸市大久保町2477 |
関連HP | 平戸オランダ商館公式ホームページ |
電車・バスで | JR佐世保駅前から西肥自動車バス平戸桟橋行きで1時間25分、終点下車、徒歩5分 |
ドライブで | 西九州自動車道(武雄佐世保道路)佐世保みなとICから約36km |
駐車場 | 平戸港交流広場駐車場(50台/2時間まで無料、以降有料) |
問い合わせ | 平戸オランダ商館 TEL:0950-26-0636/FAX:0950-26-0638 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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