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島原武家屋敷通り

島原武家屋敷通り

長崎県島原市、島原城下の島原武家屋敷通りは、扶持(ふち=米での給与)取り70石以下の島原藩の下級武士たちの住居が建ち並んだエリア。島原城外郭の西側に位置し、島原藩の徒士屋敷(かちやしき/徒士=下級武士で足軽の上)が下の丁、中の丁、古丁と呼ばれるあたりに並んでいました。

武家屋敷が残り、生活用水が流れる昔町

元和2年(1616年)、島原に入封した松倉重政(まつくらしげまさ=苛政と搾取で島原・天草一揆の原因をつくった藩主)は、原城と日野江城を廃し、7年余りをかけて島原城を築いています。
併せて、城下町を整備し、城郭西側に下士の住居として武家屋敷を配しています。

寛文9年(1669年)に松平忠房(まつだいらただふさ)が福知山から島原に入封してからは、新たに下新丁、上新丁、新建が増設されています。
鉄砲組(徒士)の住居があったことと、隣家との間に塀がなく、鉄砲の筒を覗くように家が見えるので鉄砲町とも呼ばれてきました。

往時には690戸もの武家屋敷が建ち並んでいましたが、今でも江戸期の建物が15棟、明治期10棟、大正期6棟ほど残され、城下町の風情を今に伝えています。

下の丁の武家屋敷は、苔むした石塀が続き407mに渡って家並みが保存されています。
山本邸、篠塚邸、鳥田邸が一般公開され見学が可能。

通りの真ん中の水路には、2kmほど北に鎮座する熊野神社を水源とする清流が今も流れています。
藩政時代は水奉行を置き、飲料水として厳重に管理された大切な生活用水(大正時代まで飲用水として利用されました)、そして防火用水だったもの。
下の丁にだけその水路(407m)が現存し、地元の住民が定期的に清掃管理を続けています。

武家屋敷の一角にある休憩所「武家屋敷売店」では、島原名物の「かんざらし」や「ところてん」、甘酒、ぜんざいなどで一服できます。

島原武家屋敷通り
名称 島原武家屋敷通り/しまばらぶけやしきどおり
所在地 長崎県島原市下の丁
関連HP 島原市公式ホームページ
電車・バスで 島原鉄道島原駅から徒歩10分
ドライブで 長崎自動車道諫早ICから約40km
駐車場 武者屋敷駐車場(15台/無料)
問い合わせ 島原市しまばら観光おもてなし課 TEL:0957-63-1111 FAX:0957-64-5525
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

島原武家屋敷・山本邸

長崎県島原市下の丁、島原城の西に位置する島原武家屋敷のひとつが山本邸。山本家(初代・山本佐五左衛門)は三河吉田藩・松平忠利(まつだいらただとし)時代からの深溝松平家の家臣。17石2人扶持で、下級武士ながらの門構えは最後の藩主・松平忠和から許

島原武家屋敷・篠塚邸

長崎県島原市下の丁、島原城の西に位置する島原武家屋敷のひとつが篠塚邸。三河国額田郡深溝(愛知県額田郡幸田町深溝=深溝松平氏のルーツ)を祖とする篠塚家。13石2人扶持の下級武士で、明治時代まで11代続き、おもに郡方祐筆(書記)や代官などを務め

島原武家屋敷・鳥田邸

長崎県島原市下の丁、島原城の西に位置する島原武家屋敷のひとつが鳥田邸。深溝松平氏のルーツは、三河国深溝城(愛知県額田郡幸田町深溝)。のちに三河吉田城(現在の豊橋市)の城主となり、徳川家を支えていますが、鳥田家も深溝以来の家臣団のひとつ。三河

 

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