長崎県長崎市丸山町、寛永19年(1642年)創業の老舗で、頼山陽(らいさんよう)をはじめ、多くの文人墨客に愛されてきた料亭が史跡料亭花月(花街時代は「引田屋」)。朱塗りの円卓を囲み、大人数で和洋中の豪華な料理を取り分ける長崎伝統の「卓袱(しっぽく)料理」でも名高く、地元では憧れの存在。
歴史ある料亭は今も現役で営業
江戸時代、長崎の丸山は江戸の吉原、京の島原、大坂の新町、伊勢古市(幕府非公認)とともに五大遊郭として栄えた地。
井原西鶴は、『日本永代蔵』に「長崎に丸山といふ処なくば上方の金銀無事に帰宅すべし」と記したほどで、名士などもこの地で鼻の下を伸ばし、散財していたことがよくわかります。
幕末には長州藩、薩摩藩など尊王攘夷派の志士たちも訪れ、数々の密談の舞台にもなっていますが、この地が国際的な社交場だったから。
頼山陽は3ヶ月にわたって逗留し、「養花山館」と名付けています。
文政元年(1818年)頃、「引田屋」庭園内の一部を開いて茶屋(料亭)を新築し「花月楼」と称しています。
つまり、花月とは、「引田屋」の庭園内につくられた茶屋の名がルーツ。
慶応3年(1867年)、イギリス軍艦の水夫が殺された「イカルス号事件」の際には、当日花月に出入りした海援隊の隊士もこれに関わっていたのではないかという嫌疑がかかり、この時、坂本龍馬が長崎奉行所に提出した嘆願書の草案が、併設の資料館「集古館」に展示されています。
明治12年、丸山の大火で「引田屋」も類焼、明治13年、花月の名は引田屋の一部に移転、大正末に引田屋はいったん廃業となりましたが、花月の名称と引田屋の庭園・建物は今に引き継がれています。
昭和35年には長崎県の史跡に指定され、全国的にも珍しい「史跡料亭」として営業。
食事、宴席だけでなく、披露宴などに利用されています。
国賓の晩餐会にも使われる「竜の間」(100名程収容の大広間)の床柱には、坂本龍馬が付けたといわれる刀傷があります。
「龍馬にちなんだ竜の間や中国風の天井絵のある春雨の間(日本最古の洋間)など、設えはもちろんですが、まずホスピタリティーが違う。課内でも皆でお金を貯めて歓送迎会などに使っています」とは、長崎市さるく課職員の弁。
お昼なら、卓袱料理を簡略化したサービスコース(松花堂弁当風の御膳)も味わうことができます。
夜なら1人2万円くらいから。
史跡料亭花月 | |
名称 | 史跡料亭花月/しせきりょうていかげつ |
所在地 | 長崎県長崎市丸山町2-1 |
関連HP | 史跡料亭花月公式ホームページ |
電車・バスで | 路面電車思案橋電停から徒歩3分 |
ドライブで | 長崎自動車道長崎ICから約5.5km |
駐車場 | 6台/無料 |
問い合わせ | 史跡料亭花月 TEL:095-822-0191/FAX:095-825-5221 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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