長崎県雲仙市、雲仙温泉のシンボル的存在の雲仙地獄にある潜伏キリシタンの悲しい歴史を伝える碑がキリシタン殉教記念碑。雲仙のある島原半島は、 寛永14年(1637年)〜寛永15年(1638年)の島原・天草一揆(島原の乱)で知られる土地ですが、雲仙地獄にも殉教の歴史が残されています。
キリシタンへの拷問が行なわれた歴史を伝える
島原半島はキリシタン大名・有馬氏の治下でキリスト教が栄えましたが、禁教時代になると、迫害の地へと変貌。
雲仙地獄では、島原・天草一揆(島原の乱)に先立つ、寛永4年(1627年)〜寛永8年(1631年)の間、キリシタンに信仰を棄てさせるための拷問と処刑が行なわれたという記録が残され、有馬晴信の家臣・パウロ内堀作右衛門ら16人が最初の殉教者となっています。
島原藩主・松倉重政は、幕府(徳川家光の治世、家光はキリシタンに厳しい姿勢を示し、寛永年間の迫害は残酷を極めました)への忠誠を示すために、農民からの過酷な取り立て、そしてキリシタン弾圧を行なったのです。
パウロ内堀作右衛門は、3人の息子が海に沈められて殉教してもなお、棄教しなかったため、両手の親指と小指を残し3本ずつの指を切り落とされる拷問を受け、額に切支丹の3文字の焼き印を刻まれるという過酷な拷問が行なわれ、ついに他の潜伏キリシタン15名とともに雲仙地獄へと送られます。
両足に縄を掛けて逆さ吊りにされると、湯壺に浸けては引き出す拷問や、熱湯を掛けるという責め苦を繰り返し、最後は絶命するまで湯を掛け続けて、遺体は湯壺の中に沈めたのです。
その厳しい拷問は、オランダ人宣教師、アルノルドゥス・モンタヌス(Arnoldus Montanus)の『モンタヌス日本誌』(『東インド会社遣日使節紀行』)にも克明に記されています(モンタヌス自身は一度も来日しておらず、イエズス会士の報告書などをもとに記述)。
雲仙地獄の高台にあるキリシタン殉教碑は、この地で殉教した33名を称える碑なのです。
巨大な十字架は長崎大司教区が建立したもの。
昭和14年に長崎県が建立した記念碑は徳富蘇峰の書による『聖火燃ゆ』(生田蝶介原作の小説)の碑です。
毎年5月第3日曜には、雲仙地獄で殉教した潜伏キリシタンの遺徳を偲び、長崎大司教区主催により、『雲仙殉教祭』が開催されています。
ちなみに、江戸時代には、雲仙地獄は、温泉山満明寺(うんぜんざんまんみょうじ)が管轄する女人禁制の霊山で、温泉山に登拝する際には満明寺が発行する手形、上り切手が必要で、帰路には一乗院から帰り切手が発行されていました。
満明寺では、法華経の減罪の功徳を説くとともに、亡霊供養としての法華経供養が一乗院で行なわれ、このことが雲仙の地獄が広く知られるきっかけにもなっています。
雲仙地獄(雲仙温泉)はユネスコ世界ジオパークに登録の島原半島ジオパークのジオサイトにもなっています。
雲仙地獄・キリシタン殉教記念碑 | |
名称 | 雲仙地獄・キリシタン殉教記念碑/うんぜんじごく・きりしたんじゅんきょうきねんひ |
所在地 | 長崎県雲仙市小浜町雲仙 |
関連HP | 雲仙温泉観光協会オフィシャルサイト |
電車・バスで | JR諫早駅から県営・島鉄雲仙行きバスで1時間20分、雲仙ビジターセンター前下車、徒歩5分 |
ドライブで | 長崎自動車道諫早ICから約34km |
駐車場 | 第一〜第五駐車場(186台、※第三駐車場は閉鎖中)、雲仙温泉神社駐車場(21台)、満明寺駐車場(13台)/有料 |
問い合わせ | 雲仙温泉観光協会 TEL:0957-73-3434 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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