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爆心地公園・原子爆弾落下中心地碑

爆心地公園・原子爆弾落下中心地碑

長崎県長崎市松山町一帯は、昭和20年8月9日11:02、長崎に投下された原子爆弾の爆心地で、その中心に爆心地公園・原子爆弾落下中心地碑があり、一帯が「平和公園祈りのゾーン 中心地地区」として整備されています。原子爆弾は、この地の上空500mで炸裂し、多数の一般市民の命が失われたのです。

平和公園の「祈りのゾーン」

高さ6.5mの原子爆弾落下中心地碑は、昭和31年に設置されたもの(現在のものは昭和43年に設置の黒御影石製で4代目)。
塔の前に置かれた原爆殉難者名奉安箱には原爆で爆死した人、被爆者でその後亡くなった人の氏名を奉安しています。

爆心地公園には、このほか、原爆によって破壊された家の瓦やレンガ、焼けた土や溶けたガラスなどが大量に埋没した「被爆当時の地層の展示」、大正14年に完成し、東洋一の壮大さを誇った浦上天主堂の遺壁「浦上天主堂遺壁」、下の川の親水護岸(「被爆地層の展示」は親水護岸に設置)、被爆50周年記念事業碑、外国人戦争犠牲者追悼碑、追悼電鐵原爆殉難者の碑などがあります。

被爆50周年記念事業碑は、長崎市出身の彫刻家・富永直樹(とみながなおき)の作品で、21世紀にはばたく日本の未来を、偉大なる母の慈悲心と温かな母の胸で眠る傷心の子供の姿で表現しています。

爆心地一帯には、原爆によって壊された家の瓦やレンガ、3000度の熱で焼けたガラスなどが今も大量に埋没しています。
原爆の熱線と爆風に火災が重なったので、被害は大きく広がり、死者約7万4000人、負傷者約7万5000人という大惨事となったのです。

あまりの惨状に(爆発点の温度は摂氏数百万度、爆発からの1万分の1秒後には30万度の火球を形成、爆発直後の爆心地の地表の温度は、3000~4000度という高熱)、70年は草木も生えないだろうというという70年不毛説も流れましたが、1ヶ月後には30種ほどの植物が芽吹き、今では美しい緑に囲まれています。

爆心地公園の南側にあるのが長崎原爆資料館、北側が平和公園・平和祈念像で、原爆の大きな被害を受けたカトリック浦上教会(浦上天主堂)が平和公園に東にあり、一帯が「平和公園(祈りのゾーン・願いのゾーン・学びのゾーン)」となっています。
長崎原爆資料館と爆心地公園とは、連絡通路で結ばれています。

《被爆50周年記念事業碑》富永直樹
爆心地公園・原子爆弾落下中心地碑
名称 爆心地公園・原子爆弾落下中心地碑/ばくしんちこうえん・げんしばくだんらっかちゅうしんちひ
所在地 長崎県長崎市松山町6
関連HP 長崎市公式ホームページ
電車・バスで 路面電車平和公園停留場電停から徒歩2分
ドライブで 長崎自動車道長崎ICから約7km
駐車場 長崎市平和公園駐車場(94台/有料)
問い合わせ 長崎市中央総合事務所 TEL:095-829-1164
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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