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平和の礎

平和の礎

沖縄県糸満市字摩文仁、沖縄本島の南端、摩文仁の丘(まぶにのおか)の平和祈念公園にあるのが、平和の礎(へいわのいしじ)。世界の恒久平和を願い、国籍、軍人と民間人の区別なく、沖縄戦などで没したすべての人々の氏名を刻んだ記念碑。戦争体験の教訓の継承などを目的にして建立されたものです。

恒久平和を願い、戦争の悲惨さを後世へ伝える礎

太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して平成7年6月23日に完成。
6月23日は、沖縄戦の組織的抵抗が終結した日です。
屏風のような刻銘碑は、5つ折タイプが69基、3つ折タイプ49基の合わせて118基。
刻銘板は、1220面もあり、25万人の名を刻むことができます。

沖縄県における戦没者数(総務省HP/沖縄戦戦没者の推計状況)は、沖縄県出身軍人軍属が2万8228人、他都道府県出身兵6万5908人、一般県民9万4000人、米軍1万2520人の合計20万656人にも及びます。

地上戦だけではなく、疎開学童が数多く亡くなった対馬丸事件、昭和19年10月10日の10・10空襲に代表される空襲、学徒動員による戦死、戦争マラリア、地下壕などでの自決、追い詰められた断崖からの飛び降りなど、悲惨な戦争の結果、双方で20万人以上という犠牲を生んでいます。
学徒動員に関しても、男子学徒1500人、女子学徒が500人、併せて2000人ほど動員され、男子学徒800人、女子学徒200人、合計1000人もの学徒がその未来を奪われています。
マラリアも、日本軍の指示、命令によって多くの住民がマラリア有病地域である山中に避難し、食糧不足による栄養失調と医療品の不足が、マラリアの蔓延に拍車をかけたため、八重山地域では人口3万1700人の半数以上が罹患、うち3647人が亡くなっているのです。

刻銘の方法は、それぞれの母国語で表記し、国別、都道府県別に表示、刻銘者数は毎年慰霊の日に合わせて追加・修正されています。
沖縄戦で戸籍簿がすべて消失したことで、名前の分からない戦没者もいるため、なかには〇〇の子という表記も(名前の分かっている人との続柄などを表示し、その人の生きた証としています)。

放射状に戦没者の名が刻まれた刻銘碑が建ち並んでいますが、これは、コンセプトとなる「平和の波永遠なれ(Everlasting waves of peace)」を具現化、世界に向けて平和の波が広がるようにという願いが込められています。
メイン園路は、その中心線が6月23日の「慰霊の日」における日の出の方位に合わせるという心憎い設計に。
平和の広場に向かってメイン通路の左側が沖縄出身者、右側がほかの都道府県出身者、右手のサブ園路の奥側が外国出身者の刻銘ゾーンです。

平和の広場の中央には「平和の火」が灯され、毎年6月23日を「慰霊の日」として『沖縄全戦没者追悼式』が開催されています。

ちなみに、礎(いしじ)は、建物などの基礎である礎(いしずえ=基礎となる大事な物事)を沖縄の方言で「いしじ」と発音することに由来しています。

平和の礎
名称 平和の礎/へいわのいしじ
所在地 沖縄県糸満市摩文仁545平和祈念公園内
関連HP 沖縄県平和祈念公園公式ホームページ
ドライブで 那覇空港自動車道南風原南ICから約11km。那覇空港から約18km
駐車場 平和祈念公園駐車場(352台/無料)
問い合わせ 沖縄県平和祈念財団 TEL:098-997-2765/FAX:098-997-2767
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

沖縄平和祈念堂

沖縄県糸満市、沖縄県県営平和祈念公園にある沖縄平和祈念堂は、高さ45mの七角形の塔で、摩文仁(まぶに)の高台にそびえ立っています。堂内には、沖縄出身の彫刻家・山田真山(やまだしんざん)が18年の歳月を費やし制作した漆製の平和祈念像が安置され

平和の火

沖縄県糸満市字摩文仁、沖縄本島の南端、摩文仁の丘(まぶにのおか)の平和祈念公園に灯されるのが、平和の火。平和の礎(へいわのいしじ)のメイン園路の海側、平和の広場に配され、沖縄戦最初の米軍上陸地である阿嘉島(あかじま)と、被爆地の広島、長崎か

沖縄県平和祈念資料館

沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)、沖縄本島南端部、沖縄戦跡国定公園の平和祈念公園内にある資料館が、沖縄県平和祈念資料館。建物は波形を描き並べられた「平和の礎」(へいわのいしじ)を囲むように配され、小さな赤瓦屋根が連なり沖縄の伝統的な民家集落の雰

 

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