大阪府堺市堺区にある日蓮宗の本山が妙国寺(廣普山妙國寺)。永禄5年(1562年)、摂津・河内・和泉3国を領有した三好実休(みよしじっきゅう)が京・頂妙寺の日晄(にっこう)に帰依、東西3丁・南北5丁の境内地と蘇鉄(そてつ)の木を寄進したことに始まり、境内の大蘇鉄は日本三大蘇鉄に数えられています。
堺では「信長を怖がらせた蘇鉄の寺」として有名
三好実休寄進の大蘇鉄は高さ7m、周囲17m、推定樹齢1100年で国の天然記念物に指定される巨樹。
山上宗二は『山上宗二記』で、「実休は武士でありながら数奇者(すきもの)」と評しているように、堺の豪商・武野紹鴎(たけのじょうおう)に茶の湯を学び、津田宗達(つだそうたつ)、千利休とも親しく、都井岬が自生北限という都井岬をわざわざ取り寄せたのだと推測できます。
織田信長が安土城に移植した際、「妙国寺へ帰りたい」と毎夜ソテツは泣き続け、激怒した信長が部下に命じて蘇鉄を切らせたところ、切り口より鮮血が流れ、恐れを覚えた信長が返したという伝説を有しています。
江戸時代中期の『絵本太閤記』、江戸後期刊の『英傑三国誌伝』に記載される伝説ですが、能満寺の大蘇鉄(静岡県榛原郡吉田町)にも家康が駿府城に移植したところ、帰りたいと泣いた話が伝わるので、定番の伝説なのかもしれません。
その織田信長が天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺で明智光秀に討たれた際、堺滞在中の徳川家康が宿所にしていたのが、この妙国寺と伝わり、酒井忠次、本多忠勝ら家臣や伊賀者に支えられ、無事に伊賀越えを果たし岡崎城へと逃げ帰っています。
境内には「妙なりや 國にさかゆる そてつぎの ききしにまさる 一もとのかぶ」と詠んだ徳川家康の歌碑も立っています。
豊臣家が滅亡した慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で「徳川家康妙國寺に有り」と聞きつけた豊臣方の兵火を受けて全焼、江戸時代に再建された堂宇も昭和20年7月10日未明の堺大空襲(死者1860名、全焼戸数1万8009戸、罹災人口7万人)で灰燼に化し、現存する建物は昭和48年の再建。
大蘇鉄は、二度の大火をくぐり抜け、現在では境内各所に移植され、蘇鉄寺の様相を呈しています。
幕末の慶応4年(1868年)、警備中の土佐藩六番隊(隊長・箕浦猪之吉)、八番隊(隊長・西村左平次)が上陸していたフランス人水兵と争いを起こしフランス側に即死2名、溺死7名、負傷7名の被害を生んだ堺事件で、責任を追及された土佐藩兵11人が自刃した場所(本堂前・広庭)としても知られています。
その土佐藩側の亡骸は向かいの国の史跡である宝珠院に葬られ、土佐藩士割腹跡の碑と供養碑が妙国寺境内に建立されています(フランス人水兵の亡骸は、神戸市旧居留地外人墓地に葬られています)。
ちなみに、妙国寺の大蘇鉄のほか、静岡市清水区の龍華寺、静岡県榛原郡吉田町の能満寺の大蘇鉄が日本三大蘇鉄(日本三大ソテツ)に数えられています。
画像協力/(公社)堺観光コンベンション協会
妙国寺 | |
名称 | 妙国寺/みょうこくじ |
所在地 | 大阪府堺市堺区材木町東4-1-4 |
関連HP | 堺観光コンベンション協会公式ホームページ |
電車・バスで | 阪堺電軌阪堺線妙国寺前駅から徒歩5分、南海高野線堺東駅から徒歩20分 |
ドライブで | 阪神高速15号堺線堺出口から約800m |
駐車場 | 30台/無料 |
問い合わせ | 妙国寺 TEL:072-233-0369 |
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