大阪府千早赤阪村にある楠木正成が築いた難攻不落の中世の山城跡が千早城。大和国と河内国を結ぶ千早街道を抑える交通の要衝に位置しています。楠木正成は、鎌倉幕府軍との合戦の地、赤坂城の詰めの城として千早城を築き、下赤坂城、上赤坂城、千早城の3城で鎌倉幕府軍を迎え撃ったのです。日本100名城に選定。
山麓から長い石段で山上へ
南北朝時代の元弘2年・正慶元年(1332年)に楠木正成が築城した山城、千早城。
千早川の渓谷を利用し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、出丸という5つの曲輪(くるわ)があり、空濠、掘切などで区切られています。
本丸の最高所は、金剛山(1125m)へと連なる尾根上の標高666mの地点。
二の丸には千早城の鎮守で武神・八幡大菩薩を祀った千早神社が鎮座しています(金剛登山口から徒歩20分)。
千早神社の裏手、一段高い場所が本丸(主郭)です。
その社務所が建つのは三の丸となります。
大手(表玄関)は、現在の千早赤阪村立赤阪小学校の東側と推測されています。
富田林警察署千早駐在所近くから本丸のある頂へ長い石段が続いています。
ちなみに、千早赤阪村には、楠公誕生地(道の駅ちはやあかさか、千早赤阪村立郷土資料館、くすのきホールが建っています)北側に楠木正成産湯の井戸も残されています。
「100日戦争」(千早城の戦い)で鎌倉幕府軍を撃退
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は笠置山で鎌倉幕府倒幕軍を挙兵。
楠木正成もこれに呼応しましたが、足利高氏(後の尊氏)、新田義貞、大仏貞直、金沢貞冬など討伐軍の攻撃で、笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木正成の居城・赤坂城も焼け落ちます。
赤坂城の戦いで楠木正成は、下赤坂城に火をかけて自害したようにカモフラージュし、鎌倉幕府軍の追討をかわします。
そして、新たに築いたのが千早城です。
元弘2年・正慶元年(1332年)、楠木正成は千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発します。
『太平記』によると総勢100万と号する幕府軍が1000人ほどで守備する千早城を包囲しますが、わら人形を用いた奇策や長梯子の計と火計などで対抗、後醍醐天皇が隠岐脱出を図ったこともあって、ついには包囲が解かれることになります。
新田義貞は、手薄になった鎌倉に攻め入り、元弘2年・正慶元年(1332年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡します。
つまり、この千早城の難攻不落ぶりは、鎌倉幕府滅亡の遠因にもなっているのです。
千早城 | |
名称 | 千早城/ちはやじょう |
所在地 | 大阪府南河内郡千早赤阪村千早 |
関連HP | 千早赤阪村公式ホームページ |
電車・バスで | 南海電鉄河内長野駅から南海バス金剛山ロープウェイ前行きで終点下車、徒歩20分 |
ドライブで | 西名阪自動車道藤井寺ICから約24km |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 千早赤阪村観光・産業振興課 TEL:0721-72-0081 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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