大阪府南河内郡太子町で巨大な方墳が山田高塚古墳(やまだたかつかこふん)。考古学的な被葬者は定かでありませんが、宮内庁から磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)・竹田皇子墓(たけだのみこのはか)として第33代推古天皇・竹田皇子(敏達天皇皇子)の合葬陵墓に治定されています。
改葬された推古天皇の陵墓の可能性が大
天皇陵4基(敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵)と、聖徳太子墓など約30基からなる磯長谷古墳群(しながだにこふんぐん)の1基。
山田高塚古墳(推古天皇陵)を含む天皇陵4基と聖徳太子廟の5つの古墳は、梅の花びらになぞらえて「梅鉢御陵」(うめばちごりょう)と総称されています。
金剛山地から伸びる台地状丘陵の西端部に築造された東西59m×南北55m、高さ11mの方墳。
墳丘は3段築成で、横穴式石室2基が東西に並んでいたと推測されています。
推古天皇は、『日本書紀』によれば、推古天皇36年(628年)3月に崩御し、9月に遺詔で「竹田皇子之陵」に葬ったと記されています。
『古事記』には、「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」(当初は「大野岡上」に埋葬され「科長大陵」に改葬された)とあり、平安時代編纂の朝廷が管理すべき山陵諸墓に関する詳細を記載した『延喜式』諸陵寮(しょりょうしき)には、「磯長山田陵」で河内国石川郡(現在の太子町一帯)にあり、東西2町・南北2町の大きさであると明記されています。
最初に埋葬された「大野岡上」については、大野岡の植山古墳(奈良県橿原市)だというのが通説。
平成24年2月23日には、日本考古学協会など考古学、歴史学の研究者団体の研究者16人が宮内庁職員の案内で、推古天皇陵に沿って歩き、東側の石室の一部を視認しています。
つまり、遺言で夭折した息子の墓に合葬されたのが植山古墳。
それでは天皇にふさわしくないとして改葬されたのが山田高塚古墳で、改葬先が蘇我氏の地元、南河内で、歴代の天皇陵(敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇)を集めるというのも、権威の表れといえるでしょう。
改葬が7世紀前半であれば、蘇我氏の全盛時代を築いた蘇我馬子(そがのうまこ/敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年にわたり権勢を振るいました)が命じたのかもしれません。
推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子の協力を得て、新しい身分制である冠位十二階制、憲法十二条を制定、遣隋使の派遣による中国との直接交流の開始しています。
まさに飛鳥時代の扉を開いた偉大な天皇で、前方後円墳を築くことを止め、方墳を用いたのも、いかにも改革派の天皇らしいといえそうです。
名称 | 山田高塚古墳(推古天皇陵)/やまだたかつかこふん(すいこてんのうみささぎ) |
所在地 | 大阪府南河内郡太子町 |
関連HP | 太子町公式ホームページ |
ドライブで | 南阪奈道路羽曳野東ICから約4km |
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