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切支丹洞窟礼拝堂跡

切支丹洞窟礼拝堂跡

大分県竹田市の岡城の城下町、殿町にある潜伏キリシタンの礼拝堂跡が切支丹洞窟礼拝堂跡。かつてこの殿町一帯には武家屋敷が軒を連ね、今でも城下町の風情が色濃く残されています。そんな殿町の谷あいにあるのが、切支丹洞窟礼拝堂。岡藩の上級武士である古田家の下屋敷の一部に潜伏キリシタンの礼拝堂があったと推測されています。

潜伏キリシタンが信仰した礼拝堂の跡

フランシスコ・ザビエルが薩摩半島・坊津(現・鹿児島県南さつま市)に上陸したのが天文18年(1549年)のこと。
その2年後、天文20年(1551年)9月、豊後の国(現在の大分県)を訪れたザビエルは、後にキリシタン大名となる守護大名・大友義鎮(後の大友宗麟)と出会い、手厚い保護を受けながら布教活動を行なっています。

天文22年(1553年)頃にはすでに竹田でキリスト教が流布していたという記録が残されています。
大友宗麟の一族である岡城主・志賀親次(しがちかつぐ)も天正13年(1585年)にキリスト教に入信しています。

文禄3年(1594年)、豊後国岡藩の初代藩主となった中川秀成がキリシタンに寛大な姿勢を見せ、江戸時代初めにもその信者が多かった場所ですが、慶長17年(1612年)に『禁教令』で潜伏が余儀なくされたのです。

切支丹洞窟礼拝堂跡があるのは、岡藩の上級武士・古田家の屋敷跡。
古田家は、「天下一の茶人」と讃えられ、織部好みでも知られる古田織部の叔父・古田重安から始まる家柄(『古田家譜』による)。
古田織部は、大坂の陣で豊臣方に内通した疑いで切腹、お家断絶となっていますが、叔父の家系が岡藩の家老などを務めたのです。
江戸時代中期の家老・古田広計(ふるたひろかず)は、茶の湯に優れ、織部流中興の祖といわれています。

切支丹洞窟礼拝堂跡の岩盤を掘った洞窟には、窓が5つほど設けられており、内部にはドーム状の祭壇が置かれています。
手前に礼拝のスペースが木造であったものと推測されています。
隣接して司祭の暮らしたとされる洞窟も残されています。

竹田では『禁教令』以降も宣教師たちが洞窟に隠れながら布教活動を続けていたことがわかっています。

またラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」(「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」)の頭文字INRIにAを加えて、INARI(稲荷)とし、稲荷神を祀ってキリスト教を隠したという伝承も竹田には残されているのです(竹田には『禁教令』以降に創建された稲荷が多いことからも推測できるのだとか)。

切支丹洞窟礼拝堂跡
名称 切支丹洞窟礼拝堂跡/きりしたんどうくつれいはいどうあと
所在地 大分県竹田市竹田2044
関連HP 竹田市観光ツーリズム協会公式ホームページ
電車・バスで JR豊後竹田駅から徒歩15分
ドライブで 東九州自動車道大分光吉ICから約39km
駐車場 竹田市歴史資料館駐車場(20台)を利用/駐車場から徒歩7分
問い合わせ 竹田市観光ツーリズム協会 TEL:0974-63-0585
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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