サイトアイコン ニッポン旅マガジン

「大化の改新」時、庶民は竪穴住居に暮らしていた!

大化2年(646)1月に発布された大化の改新の詔(みことのり)により、公地公民の制が確立され、律令制、そして天皇を中心とした中央集権国家の構築が始まりますが、実はその時代、一般庶民はまだまだ竪穴住居に暮らし、館(やかた)住まいは一部の豪族だけでした。

東国では平安時代も竪穴住居暮らしが残る!

竪穴住居というと、古代、縄文時代や弥生時代の暮らしを連想しますが、関東にも武蔵国が誕生し、地方の行政単位も国・郡・里が確立する時代となっても、まだまだ庶民の住居は、竪穴住居だったのです。

縄文時代に定住が進み、ムラが生まれ、次第にクニとなり、弥生時代で稲作がスタート、貧富の差も生まれ、クニの首長が古墳を築くように変化、ついにヤマト王権が統一国家を成し遂げ、天武天皇が即位した673年にそれまでの大王(おおきみ)は「天皇」を名乗るようになります。
こうして中央集権国家が確立しても、庶民は弥生時代と同じ土師器(はじき)を日常的に使い、古墳時代中頃(5世紀初頭)に朝鮮半島から伝わった須恵器(すえき)も使い始めていました。

土師器は、弥生土器の系譜に属し、煮炊きや食器として重宝されたもので、奈良時代に入って須恵器も行政機関である官衙(かんが)などで使われたため、ようやく庶民にも浸透し始めました。
須恵器は焼成度が高く、保水性にすぐれ精緻だったため、急速に普及したのです。
ただし東国には焼成する窯がなかったので(武蔵国で須恵器の焼成が始まるのは8世紀)、関西地方から運ばれたため、まだまだ貴重品でした。

大化の改新の時代、庶民が暮らした竪穴式住居は、方形だったことが特徴で、弥生時代後期(2世紀〜3世紀)から円形から隅丸方形や長方形へと変化していったのです。
煮炊きを行なう場所は、弥生時代には単純な炉(ろ)でしたが、古墳時代中期(5世紀)に竈(かまど)へと変化していきました。
竈は、壁に造り付けられた調理施設で、粘土を盛ってトンネル状の焚口を設け、上に開けた穴に甕 (かめ)などを置いて煮炊きに使いました。

ただし現在の東京都や埼玉県にあたる武蔵国など東国の一般庶民の生活は、古墳時代と大差なく(東国では7世紀後半になってもまだ古墳が築かれていました)、竪穴住居に暮らし(屋根は茅葺きで、入母屋式)、日常的な道具としては土師器を使っていたのです。

古墳の副葬品などを見ると鉄器の普及が推測できますが、一般農民層へ普及していたのかは定かでありません。

大化の改新で、土地は国有化されて公地となり(公地公民で豪族所有の土地が国有化されました)、戸主・戸口・男女・婚姻・良賤などが記載される戸籍計帳が誕生し、税金にあたる賦役も課せられました。
武蔵国の国衙(こくが=現在の県庁的な存在)も現在の大国塊神社境内にあったことがわかっていますが、庶民はまだまだ古墳時代と同じような暮らしで、海岸沿いの竪穴住居に暮らす人々は、漁労生活を営んでいました。

こうした庶民の竪穴住居暮らしは、都のあった大和国など西日本では飛鳥時代の7世紀頃まで、都から遠く離れた東国では平安時代頃まで続き、10世紀頃までにようやく床を掘り下げない掘立柱建物(平地建物)に変わっていきました。
中部・東海地方は8世紀、関東地方は10世紀頃には、竪穴住居暮らしの終焉を迎えています。

鎌倉などで鎌倉時代の竪穴建物の遺構が出土していますが、これは古代の竪穴住居との連続性はなく、倉庫として使われたのだと推測されています。

テレビや映画で、奈良時代を描いたもので正しく時代考証されたものなら、庶民は竪穴住居の暮らしとして登場するはずです。

壁側に配された竈(かまど)
「大化の改新」時、庶民は竪穴住居に暮らしていた!
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

モバイルバージョンを終了