見沼代用水西縁と芝川を結ぶ見沼通船堀西縁(みぬまつうせんぼりにしべり)の南、八丁堤(赤山街道=関東郡代の赤山陣屋と結ぶ街道)沿いにある旧家が鈴木家住宅。見沼干拓事業に参画し、享保16年(1731年)の見沼通船堀の完成と同時に高田家とともに通船の差配役を命じられたという名家です。江戸時代後期築の建物が現存しています。
鈴木・高田の兄弟が見沼通船事業に着手
享保13年(1728年)、利根川から取水して灌漑用の農業用水の見沼代用水(日本三大用水)を完成させた幕府の役人・井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ=紀州藩士で徳川吉宗の命で新田開発や用水開削を担っています)に従い、紀州和歌山元郷士・高田茂右衛門(高山家)とともに見沼干拓事業と新田開発に尽力したのが鈴木文平。
高田茂右衛門は、鈴木文平の実兄なので、享保16年(1731年)5月、兄弟で老中・松平乗邑(まつだいらのりさと)の許可を得て見沼通船事業に着手しています。
この時、開設した航路は、須戸橋(現・行田市地内)〜柴山伏越(南埼玉郡菖蒲町)〜見沼通船堀(さいたま市緑区大間木)〜芝川(川口市)〜荒川〜江戸市中永代橋筋・神田川筋を結ぶ舟運路を開設したのです。
当初は、農業用水目的だった見沼通船堀が、農閑期を利用した通船事業へと応用され、天領で産する米を江戸の幕府の米蔵に運ぶなどにも利用されたのです。
井沢弥惣兵衛の手付(手代=下役として農政を担当した下級役人)だった鈴木家は、通船の経営はもちろん、冬季に見沼通船堀を通る各船に対する積荷や船頭の割り振りなどの「舟割り」を行ないました。
文政年間(1818年〜1831年)以降は、八丁堤に八丁会所を構えて「舟割り」を実施しましたが、その時に住まいと八丁会所を併せ持った建物として建築されたのが現存するた鈴木家住宅です。
鈴木家住宅が建つ赤山街道(大宮道)は、江戸時代、河川改修や新田開発を行い、この地方の礎を築いた関東郡代・伊奈氏が開いた道で、その拠点となった赤山陣屋(現・川口市赤山)につながっています。
なお、鈴木家住宅は見沼通船堀とともに国の史跡となり、母屋、内部は非公開ですが、住宅の付属物が土・日曜のみ一般公開されています。
私有地で個人の住宅ですので、マナーを守って見学を。
鈴木家住宅 | |
名称 | 鈴木家住宅/すずきけじゅうたく |
所在地 | 埼玉県さいたま市緑区大間木 |
関連HP | さいたま市公式ホームページ |
電車・バスで | JR東浦和駅から徒歩10分 |
ドライブで | 東京外環自動車道川口中央出口から約2.5km |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | さいたま市浦和観光案内所 TEL:048-883-1055 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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