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菅谷館

菅谷館

埼玉県比企郡嵐山町にある鎌倉幕府の御家人・畠山重忠(はたけやましげただ)の居館跡が菅谷館(すがややかた)。平安時代に大里郡畠山荘の荘司だったのが畠山家で、その居館。国の史跡、そして続日本100名城にも選定され、菅谷館の一角に「埼玉県立嵐山史跡の博物館」が建っています。

現存する遺構は戦国時代のもの

畠山重忠は、畠山荘から鎌倉街道沿いの菅谷に居館を移し、平家討伐、鎌倉幕府設立に至る治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)で活躍し、「坂東武士の鑑」といわれるまでになっています。

源頼朝没後、幕府内部の権力闘争が起こり、初代執権・北条時政(ほうじょうときまさ)の謀略によって謀反の疑いをかけられて、幕府軍に討たれています。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によれば、鎌倉に異変ありとの急報に接した畠山重忠は、わずか134騎の手勢を率いて菅谷館を出陣しますが、元久2年6月22日(1205年7月10日)、二俣川(ふたまたがわ/現・神奈川県横浜市旭区)で討伐軍(北条勢)に遭遇し、討ち死にしています。
北条氏が有力御家人を排斥し、武蔵国を掌握するための策略だったと推測できます。

畠山重忠没後の菅谷館は、わずかな文献に名が見えるだけですが、戦国時代には数度にわたる改築を受けて城郭として整備拡大したものと推測でき、現在の城郭遺構は、戦国時代のものです。
国の史跡も、比企城館跡群菅谷館跡となっています。

都幾川に面した南端の断崖の上には本郭(ほんぐるわ)があり、北側に二ノ郭、三ノ郭、西ノ郭が同心円状に取り囲んで配置する輪郭式の縄張りで、土塁と空堀、虎口、三ノ郭の建物跡と井戸跡(地表下に埋没)が遺構として現存。
地元では、本郭に畠山重忠の館があった伝承されていますが、発掘調査が行なわれておらず、今のところ鎌倉時代の遺構は見つかっていません。

埼玉県深谷市畠山に、畠山重忠の墓のある畠山館跡があり、埼玉県の史跡になっています。
御岳山の山上に鎮座する武蔵御嶽神社(東京都青梅市)には、畠山重忠奉納と伝える国宝の赤糸威大鐙が社宝として伝わっています。

二ノ郭の土塁上に立つ畠山重忠像
菅谷館
名称 菅谷館/すがややかた
所在地 埼玉県比企郡嵐山町菅谷
関連HP 嵐山町観光協会公式ホームページ
電車・バスで 東武武蔵嵐山駅から徒歩20分
ドライブで 関越自動車道東松山ICから約7km
駐車場 埼玉県立嵐山史跡の博物館(20台/無料)
問い合わせ 嵐山町観光案内所 TEL:0493-62-8730
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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