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深谷城(深谷城址公園)

深谷城(深谷城址公園)

埼玉県深谷市にある平城の跡が、深谷城。城跡一帯は深谷城址公園として整備されています。康正2年(1456年)、深谷上杉氏の上杉房憲(うえすぎのりふさ)が古河公方の侵攻に備えて築城。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐まで、深谷上杉氏の居城だった城です。

深谷藩の藩庁で、1万石ながら譜代・親藩大名の居城

深谷上杉家は、永禄年間(1558年〜1570年)、7代目となる上杉憲盛(うえすぎのりもり)の時代にに、小田原の北条氏の軍門に降っていましたが、豊臣秀吉の小田原征伐、そして徳川家康の関東入部で、長沢松平家の松平康直(まつだいらやすなお=徳川十六神将の一人・松平康忠の子、母は徳川家康の異母妹・矢田姫)が1万石で入城しています。

松平康直は、小田原征伐では岩槻城を攻撃。
その戦功により深谷城主となりますが、父に先立って25歳で病没し(墓所は深谷市の三高院)、城主は徳川家康の七男で生後間もない松平松千代(母は側室・茶阿局)が継いでいますが、慶長4年(1599年)、6歳で死没。
その後は、兄の六男・松平忠輝(まつだいらただてる)が継ぐなど、短い間に目まぐるしく藩主が入れ替わっています。
その松平忠輝は、藩主就任の前年となる慶長3年(1598年)、伊達政宗の娘と縁組を行ない、慶長7年(1602年)には、下総国佐倉5万石に加増移封されています。

慶長15年(1610年)、桜井松平氏(三河国碧海郡桜井出身の松平家、当初は松平元康=徳川家康と敵対)の松平忠重(まつだいらただしげ)が入封するも、元和8年(1622年)、上総国佐貫へ移封。

最後に、酒井忠勝(さかいただかつ)が1万石を領有して入封しますが、寛永4年(1627年)、老中となって武蔵国川越へ移封となり、深谷藩は廃藩、そして寛永11年(1634年)、深谷城も廃城になっています。

徳川家康に親(ちか)しい大名が藩主となっていることから、北関東、そして中山道を抑える城として重視していたことがわかりますが、最終的には舟運などの便のいい川越がその役割を担うことで廃城になったと推測できます。

深谷城址公園として整備された城内には、コンビネーション遊具、フィールドアスレチック用遊具などが配され、子供の遊び場としても絶好。
春には公園入口付近、園内にある連絡通路に桜が咲き誇ります。

石垣などもありますが大部分が模擬石垣・塀・堀で、遺構は地下に埋没しています。
隣接する冨士浅間神社の周囲に外堀跡が現存し、深谷市の史跡に指定。

深谷城(深谷城址公園)
名称 深谷城(深谷城址公園)/ふかやじょう(ふかやじょうしこうえん)
所在地 埼玉県深谷市本住町17
関連HP 深谷市公式ホームページ
電車・バスで JR深谷駅から徒歩15分
ドライブで 関越自動車道花園ICから約10km
駐車場 あり
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

岩槻城(岩槻城址公園)

武蔵国埼玉郡岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)にあった岩槻藩の藩庁が岩槻城(いわつきじょう)。岩付城、岩附城、白鶴城、浮城とも呼ばれた城跡は岩槻城址公園として整備されています。中世には岩付太田氏の居城でしたが、徳川家康の関東入封後には高力

川越城

扇谷上杉氏が古河公方(足利氏)に対抗する足利氏の本城として1457(長禄元)年、上杉持朝(うえすぎもちとも)が太田道真、太田道灌父子に命じて築城した平山城。江戸時代には川越藩の藩庁となっています。明治6年の廃城令で建物は破却されましたが本丸

冨士浅間神社(深谷)

埼玉県深谷市、深谷城址公園の東側に隣接して建つのが、冨士浅間神社(ふじせんげんじんじゃ)。深谷城を築城した深谷上杉氏が城の鎮守として智形大明神(ちかただいにょうじん)を祀った社が始まり。社前にある小さな堀は、藩政時代の深谷城の外堀の遺構で、

 

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